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栄ちゃんの嘆き [われらの時代]

【連載49】
佐藤栄作は人気のない首相だった。
内閣支持率はおそらく一度も50パーセントを超えたことがない。
人気がなかったのは大衆的な政治家ではなく、官僚出身で居丈高さを感じさせたからである。
演説もうまくなかったという。
岸信介が実兄だったことも、イメージを悪くする隠れた要因だった。
その経歴は、というと、
戦前は鉄道省、戦後は運輸省で24年間も役人生活をし、最後は運輸次官となった。
そして、吉田茂にかわいがられ、議員でもないのに、いきなり第2次吉田内閣の官房長官に抜擢されている。
その後、兄と同じ選挙区から衆院選に立候補して、初当選。
1年後に自由党幹事長、そのあと郵政相、建設相、自民党総務会長、蔵相、通産相などを歴任し、池田勇人が病気で首相を辞任したあと、1964年に63歳で首相に就任した。
「栄ちゃんと呼ばれたい」といったとかで、世間から失笑を買った。
ところが、山田栄三の『正伝佐藤栄作』を読んでいると、次のような記述にぶつかった。
〈かつて[佐藤]首相は大野伴睦(ばんぼく)〔党人政治家で自民党副総裁〕を偲ぶ会に出席して、「伴ちゃん、伴ちゃんと、みんなから愛された故人にならい、私も栄ちゃんと呼ばれたい」と述べたことがある。
このことをとらえてマスコミは早速、
「不人気な首相、伴ちゃんにあやかりたい」とか、「私も栄ちゃんと呼ばれたい」といった記事を並べた。このとき首相は次男信二に語っている。
「あんなことでも言わなければ、故人をほめる言葉がない」
首相は大野伴睦の生存中、終始一貫して、目の敵にしていじめ抜かれた。首相もそれに反応して大野を嫌った。首相が本気で「栄ちゃん」と呼ばれたいと思ったかどうか疑問だが、子供のころからの呼び名でも「栄ちゃん」と呼ばれることはなかったようだ〉
おそらく佐藤栄作のことを「栄ちゃん」と呼びたいと思う人は、誰もいなかっただろう。
だから、マスコミはそれを逆手にとって、「私も栄ちゃんと呼ばれたい」と人を小ばかにする言い回しで、首相のことをはやしたてたのである。
このことひとつをとってみても昨今の小泉純一郎とちがって、佐藤栄作が当時、いかに人気がなかったかがわかるだろう。
ぼく自身も大学生のころは、かれのことを保守反動の権化だと思っていた。
アメリカのベトナム戦争に荷担し、ベトナム反戦の市民や学生を弾圧し、三里塚では強制的に農民の土地を収用し、産業優先の名の下に公害を全国にまき散らしても、平気でふんぞり返っている悪の親玉というイメージでとらえていたのだ。
69年11月の佐藤訪米阻止闘争のときは、ぼくも蒲田周辺にのこのこ出かけたものだ。
このとき佐藤首相はヘリコプターで羽田空港に到着したので、デモ隊はなすすべもなく解散したが、このとき友人が逮捕され、けっこう長い間拘留されたことを申し訳ない記憶として覚えている。
ベトナム戦争がまちがっていたという思いはいまも変わらない。
それでも佐藤栄作が戦後の大きな課題である日韓基本条約締結と沖縄返還をなしとげたことは、まちがいなく歴史的功績として残るだろうと最近になって思うようになった。
皮肉なことに、ベトナム戦争が日韓基本条約と沖縄返還(さらにはのちの日中国交回復)を可能にしたといえなくもない。
日韓条約は1965年6月に締結されるが、共産党や社会党がこの批准に反対したことはいうまでもない。
韓国では朴正煕が軍事独裁政権を築いていた。
山田栄三はこう書いている。
〈社会党の反対は、日韓条約が本質的に軍事同盟とベトナム戦争へつながっており、さらに南北朝鮮の対立を固定化させるおそれがある、というのが主な理由であった。民主、公明両党は、原則的に日韓条約批准に賛成ではあったが、それぞれ党内事情もあり、条件つきで承認延長論に傾いていた〉
社会党の追及に対し、佐藤は国会でこう述べている。
「日韓両国の提携は当然であり、軍事同盟に発展するものではない。条約の軍事性やベトナム戦争との関連を言い立てるのは、故意に不安をあおるものである。隣の国と仲良くできないものが、世界平和を口にするのはおこがましい」
いまとなれば、あたりまえに聞こえるが、当時は朴政権と提携するなど許し難い行為と思えた。

ジョンソン米大統領と会見してから約半年後に沖縄を訪れた佐藤は、1965年8月、那覇国際空港で有名なステートメントを読み上げている。
「同胞のみなさん――。かねてより熱望しておりました沖縄訪問が実現し、……みなさんの長い間のご苦労に対し、深い尊敬と感謝をささげるものであります。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていないことをよく承知しております。これはまた日本国民すべての気持ちであります」

野党は、アメリカが沖縄を返還なんかするものかとせせら笑っていた。
われわれ左翼学生は、米軍基地を撤廃して、沖縄を奪還すると主張していた。
沖縄返還交渉はジョンソン時代にはまとまらず、ニクソン政権に持ち越された。
交渉が決着し日米共同声明が発表されたのは69年11月21日のことである。
その共同声明の一節には次のような文言があった。
「総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し大統領は深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を、総理大臣に確約した」

一読、何のことかわからない。
山田栄三はこう書いている。
〈これで沖縄返還は最大のヤマを越した。日本はかねての願望通り「核抜き本土並み」に成功し、米側は「基地の機能をそこなうことなく」施政権を手離すことができるのである。両首脳は固い握手を交わし、会談の成果を祝った〉
問題は「事前協議」うんぬんの非常にわかりにくいフレーズである。
山田によれば、「事前協議」項目を入れるよう求めたのはニクソン大統領だったという。
〈事前協議は、在日米軍の配置や装備の重要な変更を行うとき、あるいは日本の基地から直接戦闘作戦行動に出るときは、日本政府と事前に協議することを取り決めたもので、これによって米側は緊急時には、沖縄基地への核持ち込みについて協議を行う道を残そうという提案であった〉
玉虫色の解釈を残す必要があった。
このフレーズを入れないかぎり、話し合いによる沖縄返還は不可能だったにちがいない。
佐藤はその年の暮れ、渋谷駅ハチ公前でこう演説している。
「沖縄では県民15万、日本軍将兵11万、米兵5万、あわせて30余万の人命が失われました。この土地を、いま一兵も損ずることなく、話し合いで返還されるのを、なぜ喜んでもらえないのだろうか」
いまになって、その嘆きはわかるような気がする。
しかし、当時われわれはこうした言葉に反発しか覚えなかった。


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