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河上肇の下獄 [柳田国男の昭和]

《連載21》
 元京大教授の河上肇は東京足立区の小菅刑務所に収監されていた。
 マルクス主義経済学者として知られていた河上は、これまで日本共産党にかれこれ2万数千円〔現在の貨幣価値にすれば5000万円近く〕を秘密裏に献金してきた。かれの出す本はよく売れ、それだけ印税収入があったのである。
 田中清玄の武装共産党が壊滅したあと、風間丈吉らによる非常時共産党が再建される。通称スパイM(松村)が執行部内に潜り込み、大森銀行ギャング事件などの資金略奪闘争をけしかけながら、党の一挙壊滅をねらっていた。
 河上は1932年(昭和7)9月9日に共産党員となり、その4カ月後の翌年1月に逮捕される。そして、7月7日、新聞に河上の「獄中独語」が掲載された。

〈……人生五十というが、私は既に55にもなっている。もはや残生いくばくもない。共産主義者として最後をまっとうしたら本望だと、誰もが思うであろう。ところが、ひとたび自ら牢獄生活を経験してみると、生死を超越した老僧の山に入りて薬を採るのこころが理解される。免れがたき死は恐れぬにしても、なるべく苦痛を避けて楽に死にたいというのが、最後まで人間に残る本能の一つであるらしい。……
 私は今後実際運動とは──合法的のものたると非合法のものたるとを問わず──全く関係を絶ち、元の書斎に隠居するであろう。これが私の現在の決意である。私は今かかる決意を公言してこれに社会的効果を賦与することにおいて、共産主義者としての自分を自分自身の手で葬るわけである〉

 共産主義者としての信念は捨てないけれども実際の活動からは一切手を引くというこの声明は、6月7日の党幹部、佐野学と鍋山貞親の獄中転向声明以上に、共産主義者の大量転向を生み落とした。
 立花隆はこう書いている。

〈佐野、鍋山は、コミンテルンを批判し(各国共産党をソ連防衛隊にしてしまった)、日本共産党を批判し(労働者の党を小ブルの極左主義者の党にしてしまった。君主制打倒を中心スローガンにして大衆から離反した、など)、自らの誤りを認めた上で転向すると宣言し、同志にもそれをすすめたのに対し、河上は、そのような批判、自己批判は、反省は何もしていない。ただただ自分の弱さを認めるのみである〉

 この「独語」を発表したにもかかわらず、河上に執行猶予はつかなかった。懲役5年の実刑判決が下され、河上は1937年(昭和12)6月まで小菅刑務所で刑に服した。服役期間が実質4年となったのは、皇太子生誕恩赦で1年の減刑が認められたからだ。
 ところで佐野、鍋山が批判したコミンテルンの「32年テーゼ」には次のような一節が含まれていた。

〈天皇制は、国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし)の主要支柱である。天皇制国家機構は、搾取階級の独裁の強固な背骨となっている。その粉砕は日本における主要なる革命的任務中の第一のものとみなされねばならぬ〉

 天皇制打倒をうたった32年テーゼをドイツ語から翻訳し、「赤旗」を通じて日本に紹介したのは河上肇にほかならなかった。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]


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