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流され王 [柳田国男の昭和]

《連載28》
 柳田国男が「流され王」という論考を雑誌「史林」に発表したのは1920年(大正9)のことである。不敬罪や治安維持法が幅をきかせるなかで、こうした刺激の強い論考を発表するのは勇気だけではなく慎重さを要しただろう。
 ことは王の流離と民間信仰にかかわっている。
 最初に挙げられるのは武州高麗本郷〔現埼玉県日高市〕の高麗(こま)神社、通称白髭(しらひげ)社である。この神社が祭っているのは、朝鮮の高麗王若光(こまのこきん・じゃっこう)で、ほかにも新羅王、百済王などと称する異国の王を祭る神社が各地にちらばっている。
 しかし、これらを歴史上の実在の王と考える必要はない、と国男の主張はやや冷淡な方向に傾いている。

〈これは単に霊威の最も旺盛なる神が突如として顕(あらわ)れ祟(たた)る場合に、これを遠い国から移り臨みたもうものと考える傾向が、大昔からわれわれのなかにあったということを示すまでで、決して元をたどり、ないし今風の考証をして後にいい伝えたものではない。ことにこれを何のなにがしの霊とまで断定することは、後作にあらざれば偽作である〉

 それでも南部の稗貫(ひえぬき)郡〔現岩手県中部〕などでも「流され王」は出現し、さまざまなあやかしをおこなって、去っていった。この王は吉野のみかど〔南朝の天皇〕長慶院ではないかといううわさが広がった。国男は中世以降の天皇で、ゆくえなき旅に出たのは長慶院(第98代天皇)だけではないかと書いているが、そのあつかいにはほとほと困りはてている。

 後白河天皇の皇子、高倉宮以仁(もちひと)王が放浪した故地も残っている。ほかに用明天皇、弘文天皇、文武天皇、孝謙天皇などの事績も伝わっている。
 やっかいなのは明治になって弘文天皇と追諡(ついし)された大友皇子(おおとものみこ)の扱いだった。壬申の乱で大海人皇子(おおあまのみこ、のちの天武天皇)に敗れた大友皇子の伝説が、蘇我氏の名と絡んで各地に伝わっていた。
 もちろん昭和初期の教科書には、天皇位を争った壬申の乱の記述はなかった。また正統とされる南朝の長慶天皇が実は即位もままならず、各地を放浪していたという伝説が残っていたことも記されるはずがなかった。
 国男は日本各地に「流され王」の物語がちらばっていることを明記したうえで、次のように論考をしめくくる。

〈そっとしておいて次第に忘れさせようとか、またはごく内々で手を振るという態度が、これ[比較研究]によってゆくゆく改まったら、それこそ武州の高麗王などが無意識に遺(のこ)すところの大いなる恩恵である〉

 ここで国男が念頭に置いていたのは、異国から到来した高麗王の事績だけではない。「一目小僧」と同じように零落した「流され王」の物語にもっと関心をもつべきだというのである。
 しかし、それ以上は書けなかった。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]

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