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椀貸伝説 [柳田国男の昭和]

《連載29》
 1934年(昭和9)6月に発行された『一目小僧その他』には、表題の論考のほかにも捨てがたいテーマがいくつか隠されていた。そのひとつがいわゆる椀貸(わんかし)伝説と呼ばれるもので、柳田国男は1918年(大正7)2月から3月にかけて東京日日新聞に「隠れ里」という考察を発表し、そのなかでこれを論じていた。
 椀貸とは、たとえばこんな話だ。

〈自分の郷里兵庫県神崎郡越知谷(おちや)村の南にも、山の麓に曲淵(まがりふち)、一名を椀貸淵というところがあって、淵の中央に大きな岩がある。昔は椀を借りたいと思う者は、前夜にこの淵に向かい数を言って頼んでおくと、次の朝は必ずこの岩の上にその通りの椀が出してあった。後に椀を一つ毀(こわ)した者があってから、絶対に貸さぬようになったといい、なおこの淵は底が竜宮に通じているということであった〉

 播州だけではない。こうした伝説は、香川や福井、石川、岐阜、静岡などの各県に広がっていた。その場所は淵の場合もあれば、塚の脇にうがたれた洞窟の場合もあったが、いずれにせよ、ここで願えば、必要なだけの椀が出現したのである。
 人類学者の鳥居龍蔵は、日本各地に残る椀貸伝説は、アジア諸民族のあいだでおこなわれていた「無言貿易」の一種であると論じた。
 国男はこの見解を批判するために「隠れ里」という論考を書いたともいえる。


 実はイギリス由来の「無言貿易」という用語がむやみに用いられるのを最初に批判したのは南方熊楠(みなかた・くまくす)にほかならない。
 1917年(大正6)10月の「人類学雑誌」に熊楠は「無言貿易」という論考を発表し、こんなふうに述べている。

〈1903年グリエルソンの『無言貿易論』[Philip Grierson, The Silent Trade]が出たとき、予一書を「ノーツ・エンド・キーリス」に寄せ、支那で古く鬼市と言うたは無言貿易の一、二の異態を指したのだろうと述べた〉

 ここから熊楠は博識ぶりを披露して、中国明末の随筆集『五雑俎(ござっそ)』の記述を引用しながら、次々と奇妙な交易風習の例を挙げていく。
 たとえば『歳時記』には「務本坊の西門に鬼市がある。昔は、冬の夜に薪(たきぎ)売りの呼び声が聞こえた。これは鬼が自分で市を開いているのだ」と書かれている。
『番禺(ばんぐ)雑記』には「時に海辺で鬼市がおこなわれる。夜半に出会い、鶏が鳴くと散会する。お互いに交易して、変わったものを得る」と記されている。
 また済瀆廟(さいとくびょう)の神はかつて人と交易したという。割符を池中に投じると、金がそれに応じて浮かび上がった。牛馬百物を借用することもできたようだ──などなど。
 熊楠は『歳時記』の例は暗い夜に声を出して売り歩いているので、厳密には無言貿易とは言えないとし、『番禺雑記』の海辺の例はたぶん無言貿易だが、済瀆廟の例は日本でいう「椀貸伝説」だろうと述べている。
 それよりも熊楠が無言貿易の代表例として挙げるのは『法顕伝』に記されるスリランカの奇妙な風習である。
『法顕伝』にいわく。「その国にはもともと人がおらず、いるのは鬼神と龍だけだったが、ここに来たった諸国の商人と交易した。そのとき鬼神はみずから姿を現さず、ただ宝物を出し、そこに値を示してあった。商人はその値に従って、ものを取った」
 熊楠はここでいう鬼神とは山岳民族のヴェダ人のことで、龍とは帽蛇(コブラ)をトーテムとする部族のことだと述べている。
 熊楠は何でもかでも「無言貿易」と名づけるのは誤解を招くという。そして「他部の民に接近するを忌むこと」のはなはだしかった、昔の売り手と買い手が互いに近づかない貿易を「鬼市」と総称したほうがいいのではないかと提言している。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]

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