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政府はしばしば正義を逸脱する [商品世界論ノート]

【堂目卓生『アダム・スミス』を読む(7)】
堂目卓生著『アダム・スミス』の意義は、新古典派経済学の元祖として位置づけようとする試みから、スミスを救出しようとしたところに求められるのではないだろうか。
個々人は最大限の利益を求めて行動するというのが新古典派の前提である。
そしてスミスもまた、経済人は利己心にもとづいて行動するにもかかわらず、社会では「見えざる手」によって最大限の幸福が達成されると唱えたと理解されがちだった。
ところが堂目によると、スミスは何よりも人間を社会的存在としてとらえていたというのだ。
人が、他者とのあいだに形成される公平な社会ルールにもとづいて、それぞれの自由な生き方を追求するときに、市場は拡大し社会が繁栄する──これがスミスの考え方だという。
だから、他者を排除してまで自己の利益を追求する個人は、公平な社会のルールにもとるということになる。
著者はこう書いている。
〈財産形成の野心や競争は正義感によって制御されなければならない。制御されない野心や競争は社会の秩序を乱し、結果として、社会の繁栄を妨げることになる〉
これは現在の新自由主義への痛棒である。
野心や競争は否定すべきだというのではない。それらは社会的ルールにもとづいて追求されなければならないというのだ。

スミスは市場社会が人と人とを結びつけることによって、人の生活を守り、豊かにする役割を担っていると信じていた。
これまでの閉鎖的な共同体に代わって、世界に広がる自由なムラが市場社会なのだ。
だから、経済成長によって市場社会が発展すれば、貧しい人が減っていくだけではなく、貿易を通じての海外諸国との関係も相互互恵的なものになるはずだとスミスは考えていた。
ところが、そうならないのは国家が特権商人や大製造業者の利益を優先したり、他国に対する領土的野心を満たしたりすることに血道を上げるからである。



市場社会が正しく機能するためには、公平な社会ルールが取り戻されねばならない。
ただし政府はしばしば正義を逸脱する。
正義はむしろ個々人の良心にかかっていると、著者はいう。
〈自由で公正な市場経済が構築されうるか否かは、その社会を構成する諸個人が、どの程度、胸中の公平な観察者の声に耳を傾ける諸個人であるか、言いかえれば、その社会が、どの程度、道徳的に成熟した社会であるかということにかかっている〉
スミスは人びとの感情に配慮することなく、自己の信条を押しつけて急激な社会改革を達成しようとする人──「体系の人」には懐疑をいだいた。
最晩年には、フランス革命の暴虐ぶりを肌身に感じたかもしれない。
スミスのめざしたのは、長期的な目標にもとづく緩やかな社会改革である。

本書の「終章」では、最晩年にスミスが『道徳感情論』の第6版に付け加えた一文が紹介され、それにもとづいて、著者が味わい深いまとめを提示している。ちょっと感動的なので、それを最後に引用しておきたい。
〈諸個人の間に配分される幸運と不運は、人間の力の及ぶ事柄ではない。私たちは、受けるに値しない幸運と受けるに値しない不運を受け取るしかない存在なのだ。そうであるならば、私たちは幸運の中で傲慢になることなく、また不運の中で絶望することなく、自分を平静な状態に引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生きていかなければならない。私は、スミスが到達したこのような境地こそ、現代の私たちひとりひとりに遺された最も貴重な財産であると思う〉
ぼくにとっては、国を豊かにする、あるいは個人を豊かにするバイブルだと思われていた『国富論』が、実はすぐれた道徳の書に裏打ちされていることを知ったのが本書の最大の収穫だった。
問われるべきは自己の利益ではなく、自己の良心なのである。
そして、それを自由に表明することのできる場が社会的に保障されることが何よりもだいじなのだ。
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