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近衛の日中和平工作 [柳田国男の昭和]

《連載55》
 1938年(昭和13)当時、首相の近衛文麿にとって、最大の政治課題は日中戦争の収拾だったといってよい。いったん始まった戦争を終わらせることほど至難の業はない。「国民政府を対手(あいて)にせず」という声明を出したあと、近衛はこれを悔い、これではいつまでたっても日中戦争は終わらないと考えるようになった。5月に内閣を改造し、広田弘毅に代えて宇垣一成を外相に、杉山元に代えて板垣征四郎を陸相に据えたのも、不拡大派とみられたかれらによって「支那事変」の解決をめざそうとする意志の表れにちがいなかった。
 だが、軍の勢いは止まらない。軍は南京を占領したあと、蒋介石政権をさらに追い詰めるために、広東と武漢を奪う作戦を立て、いずれも10月にこれを成功させている。蒋介石の国民政府はさらに内陸部の重慶に移り、ひそかに和平を呼びかける日本の働きかけを無視し、日本と戦いつづける姿勢を崩さなかった。
 このままでは泥沼の戦いになると感じた近衛は、ひそかに大逆転の和平工作を演出する。国民政府の大物、汪兆銘(汪精衛)を重慶から脱出させ、かれのつくった新政府と和平協定を結び、日中戦争を終息に導こうというのである。汪兆銘の重慶脱出は成功した。しかし、結果からいうと、この政略は挫折する。1939年(昭和14)1月に近衛が政権を投げだすのは、和平工作に失敗したためでもあるが、それをつぶそうとした軍部に抗議する意味合いもあったのではないか、と当時この工作に深くかかわった同盟通信上海支局長(のち編集局長)の松本重治は著書『近衛時代』のなかで回想している。
 汪兆銘が重慶を脱出したあと、近衛は12月22日、11月3日につづいてふたたび「東亜新秩序」の建設を強調する声明を発表し、中国に対する日本の要求が満州国の承認であり、共同防共であり、経済提携であることを明らかにしつつ、日本には中国の領土を求めるつもりはなく、中国の「独立完成」のために治外法権を撤廃し、租界の返還を積極的に考慮すると宣言した。ところが、松本重治によると、このときの声明には11月30日の御前会議で決定されたはずの「協定による駐屯地以外の日本軍の早期撤兵」という項目が完全に抜け落ちていたのである。
 こうして和平工作をえさに重慶を脱出してハノイから南京に移ってきた汪兆銘は完全にはしごを外される格好になった。中国からの日本軍の早期撤兵という一項がなければ、せっかく汪兆銘が蒋介石に代わる新政府を発足させようとしても、そのインパクトは弱く、けっきょくは日本の傀儡政権になりさがるほかなかったからである。これに輪をかけた近衛の政権投げだしは、日中戦争収拾の道が完全に遠のいたことを内外に示す結果となった。
 松本重治はこう書いている。



〈一体全体こんな肝心なときに、近衛さんが[なぜ]やめざるを得なかったのか。[どうして]「ああ、嫌になった。早くやめたい」などといって、辞表を出してしまったのか。そうさせた内政の事情があるのかどうか、そういう疑問を私は何度となく、後日になっても突きとめようとした。しかし本当の明確な辞職の理由というのが、つかめなかった。……けれども、撤兵問題を声明に盛り込んでおいたのを、これは統帥事項だ、文官がくちばしを入れることではないとばかり、しかも陰険なやり方で、陸軍に蹴られたことが本当なら、それ一つで、近衛さんは辞職するに十分だ、と思う。汪兆銘に対しても、相済まぬことだろう。私ならそういうふうに考える〉

 近衛文麿がアクロバットめいた政権運営を強いられていたころ、柳田国男はすでに社会の表舞台をしりぞいて日本民俗学の開拓に精力をそそいでいた。日中戦争の早期終結に期待していたことはまちがいとしても、その周辺には戦争の余波が次々と押し寄せていた。
 雑誌「民間伝承」を編集していた守随一(しゅずい・はじめ)は「木曜会」の同人だが、この年(1938年)10月から南満州鉄道(満鉄)調査部に勤務するため、満州の新京〔現長春〕に渡ることになった。同じく同人のひとりで、かつての東大新人会闘士で中野重治とも親しかった大間知篤三(おおまち・とくぞう)も、新京に設立されたばかりの満州建国大学のドイツ語教師に招かれ、翌年2月に単身、満州へと向かうことが決まっていた。大間知を呼んだのは、金沢連隊に入隊したときの上官で、いまは関東軍参謀となっていた辻政信である。大間知にはドイツ語を教えるほかに、「五族協和」をスローガンとする満州国で、民族学者として活躍することが期待されていた。
 国男の三女三千と昨年結婚した堀一郎は、仏教史を専門としていたが、その年の暮れから国民精神文化研究所に勤めはじめていた。この研究所は文部省の直轄機関で、マルクス主義に対抗して、日本の国体精神、国民精神を研究することを目的にしていた。この研究所には堀の推薦で、のちに和歌森太郎なども加わり、神社や神事の研究にあたるようになる。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]
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