SSブログ

ヒエを語る [柳田国男の昭和]

《連載57》
 近衛政権が日中の和平に踏み込めず、ずるずると戦争にのめりこむなか、国男がつづっていたのは「妖怪名彙」「敬語と児童」「のしの起源」「夢と文芸」といった、いずれも悠揚せまらぬ民俗文芸で、それらはのちに『妖怪談義』『国語の将来』『食物と心臓』『口承文芸史考』といった単行本に収録されることになる。
 それでも国男がまるで時局とは無縁でいられたかというと、そうもいかなかったのが事実である。この年11月22日に開かれた農村更正協会主催の会合に出席して、「稗(ひえ)を語る」という話をしたのもその一例だろう。
 農村更正協会は農林省の外郭団体で、国男と親しい元農林次官の石黒忠篤が会長を務めていた。この団体が東北農村の救済にあたっただけではなく、満州の開拓を推し進めようとしていたことはまちがいない。ほぼ3年ごとに冷害に見舞われる東北を救うだけでなく、泥炭地の広がる北満州で安定した食糧を確保するには、救荒食物でもあるヒエを栽培するのが最適と思われていた。
 この講演の冒頭、国男は日本ではヒエの栽培が減る一方だと指摘した。そして、その理由として、耐寒種の稲が登場したこと、ヒエを食うのは貧乏人という偏見があること、さらにヒエはまずいものという意識が強いことの3点を挙げている。
 ほかにもヒエの精白は手間がかかるだけでなく、つき減りが多く、3斗のものが1斗になってしまうのも問題だった。しかし、国男は機械によって精白方法は改善されるようになったと述べ、飯に混ぜて食べるとか、酒にするとか、醤油や味噌にするとかで、その用途も広がるはずだと付け加えている。
 国男は古事記の語り部に稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物がいるように、日本には稗田という土地が多く見られたという。そして、かつてヒエは乾燥地(畑)ではなく湿地(田)でつくられていたが、いつしかそれが別の種の畑稗に変わり、さらに麦の普及に押されて、だんだんと引っ込んでしまったと話す。
 だが、ここで国男が強調するのはヒエ生産の意義である。

〈……いったい米食というものはハレのもので、昔は神の祭日とか貴人の接待等のほか、一般に常食するということはなかった。だからこそ日本人は米のとれないところでも稗が食べられるところへはどんどん移住していった。……要するに米が農業者の常食だという考え方は間違っている〉

 国男は日本人が米を主食と考えるようになったのはたかだか百年か百五十年前のことで、むしろこうした「悪癖」ともいうべき思い込みを捨て去ったほうが「本来の日本人」に立ち戻るきっかけになるかもしれないと述べて、エキセントリックなくらいに常食としてのヒエ、しかも湿種の田稗にこだわりをみせるのである。
 その理由については、実にあっけらかんと語っている。

〈私はいわゆる農産製造の側では必ずしもやらなければならぬ〔ヒエを酒や味噌の原料とする〕重要性はないように思う。むしろ常食として考えてもらいたい。というのは日本は将来段々北満地方の開発に当たるわけだが、あすこには湿地が非常にある。私はかねて稗をあれと結びつけて考えなければならぬということを肚(はら)に持っているものだから、先だってもその話をした。麻生君などもやはりそれを言っていた〉


 さらに国男は「水湿地に適する稗でうまいとか多産だとかいう特徴を持ったものを見つけてそれを満州へも送ること」がだいじだと述べている。
 ここに名前が出てくる麻生君とは社会大衆党書記長の麻生久のことである。軍部の革新派を支持しながら民衆の生活向上をはかるという方針をとった麻生は、満蒙の開拓を積極的に応援していた。
 広田弘毅内閣のときにつくられた「満州開拓移民推進計画」は1936年から56年の20年間に500万の日本人移民を満州に送るという遠大な構想だった。実際には1936年に2万人の家族移住者、38年から42年にかけて20万人の農業青年が送りこまれたあと、戦争の激化によって、満州開拓青少年義勇軍がソ連国境近辺に配置され、悲劇の種子がまかれる結果となったことはよく知られている。
 国男は翌1939年(昭和14)5月に農村更正協会から出版された叢書『稗の未来』のなかで、さらにはっきりと述べている。

〈黒竜江以南だけでも一千万町歩以上、あるいはことによると日本の全版図に近いヤチすなわち湿地があると聞いている。……きっと稗だけと限ったことではないが、とにかく一方に広々とした空き地をかかえ、食えば太るであろう人々に穀物をも与ええないということは、文化の名において恥ずべきことである。あらゆる可能性は試みられなければならぬ。それには最も手近なもの、現にわれわれも今心づきかけているものを、まず施してみるのは自然である。もちろんいくつかの予想しがたい障碍(しょうがい)はあろうが、とにかくに足をこの方向に向けたということが、また一つの新しい楽土を胸に描きださしめる。われわれ日本人の力で、この広漠の野に民が栄え、秋の稔りを待って平和なる土着が続けられ、少しは余裕のある文化生活が始まったとしたら、東亜の面目はすなわち一変するのである〉

 時局にいくら恬淡(てんたん)としていようとしても、膨張する帝国の影は確実に国男のもとにも迫っていた。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0