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『坂口安吾と太平洋戦争』(半藤一利)を読む(1) [本]

学生時代、『安吾巷談』や『安吾新日本地理』を読んで、坂口安吾という人は痛快で愉快だなと思った記憶がある。ただし、本の中身をちっとも覚えていないのが情けない。
坂口安吾は1906年生まれで、1955年に満48歳で亡くなっている。活躍したのはだいたい戦後になってからで、太宰治とともに無頼派のイメージが強い。イノチガケの文士というのがぴったりくる。
ぼく自身、胸を張って安吾を読んだとはいえないくらいだから、いま若い人でかれの本を読んでいる人がどれくらいいるか、はなはだ心もとない。
それでも、先日、書店をぶらついていて、この本を見つけ、郷愁を誘われて、つい買ってしまった。戦後派の代表ともいうべき安吾が、ベストセラー作家になる以前の太平洋戦争中、何を考え、どのように暮らしていたかをちょっと知ってみたいと思ったからである。
著者の半藤一利は終戦の時、中学3年生で、その後『週刊文春』や『文藝春秋』の名編集長となるが、晩年の安吾ともつきあいがあった。旧制浦和高校時代に安吾の「堕落論」を読んで、「あらゆるニセの着物を脱ぎ捨て、好きなものを好きだと言い切れる赤裸々な心になろう」と思ったという。タテマエ論や薄っぺらなイデオロギーを捨てて、自由な立場で考え、行動すること──安吾はそういううらやましい生き方を示している。
二・二六事件(1936[昭和11]年)が発生するなか、数えで31歳の安吾は女流作家、矢田津世子に「物情騒然たる革命騒ぎにあきれました」が、「どうぞ遊びにいらしてください」というラブレターを送っている。こもっていたのは本郷の菊富士ホテル。
〈そのときの安吾さんの心魂を大薙(おおな)ぎに薙いで、揺さぶっていたものは烈(はげ)しい恋の嵐のほうであって、革命騒ぎなど安吾の精神に微風(そよかぜ)ほどの影響も与えていなかった〉と半藤。
安吾はこの女流作家に心奪われていたが、彼女にはどうやら別の恋人がいたらしく、冷たくされるばかり。そして、安吾自身もまた亭主もちの酒場のマダムと腐れ縁をつづけていたというのだから、話はかなりやっかいだ。
一途に思いこんだ恋は空回りするばかりで、安吾は虚無と絶望におちいる。そこで東京を離れる一大決心をして、京都へと引っ越す。新たな地で長編『吹雪物語』に取り組もうと思ったのである。1937年春のことだ。
安吾は時代におもねらない。このころしきりに鼓吹されるようになった「日本精神」などというものはないと、地元の「新潟新聞」(現在の「新潟日報」)に書いてはばからなかった。しゃちこばったタテマエが嫌いなのだ。このあたりが、安吾好きにはたまらないところ。
京都に移って、最初は仕事も順調にはかどり、700枚を書き上げる。ところが、ここで急ブレーキがかかる。
〈原稿書きを放り投げた安吾は朝から晩まで、市井の落伍者たちとパチリパチリとヘボ碁をうち、安酒を呑んで暮らした〉とある。しかし、名所旧跡めぐりとは無縁の京都でのぶらぶら生活が、文明史家としての目を養うことになったというから、作家というのはただでは起きないものである。
大弾圧され、陸軍工兵隊によって爆破された大本教の亀岡本部跡地にも足を伸ばしている。
原稿が書けず、京都で自暴自棄の生活を送る安吾を救ったのが、中学時代の同級生で竹村書店という出版社を経営する竹村坦だったという。持つべき者は友。竹村は安吾に小説の完結をうながすとともに、東京に戻ってくるよう厳命した。これに応えて安吾はようやく『吹雪物語』を完成し、1938年(昭和13)の初夏、意気揚々と帰京する。
だが、やたら観念的な小説はさっぱり売れなかった。
「あの頃、私は、何度死のうと思ったか知れないのだ。私の才能に絶望した。こんなものしか、こんな嘘しか、心にもないことしか、書けないのかと思ったから」。安吾は戦後、そう記している。
東京に戻ってきた安吾は、菊富士ホテルでぶらぶらするばかりで、新しい小説に取り組む気配もない。軍部はこのころ名のある作家をペン部隊として中国に送りこんだが、名のない安吾にはもちろん声すらかからない。碁をうちにでかけたり、酒をのんだりする以外は、部屋にこもって、日本のあっけらかんとした説話文学を読みふけっている(これが、のちの養分となる)。
そのころ安吾に発表の場を与えたのが、宇野千代を発行人、三好達治を編集長とする雑誌「文體(ぶんたい)」だったという。7号で廃刊されたとはいえ、ここにかれは5本の小説を発表し、とぼけた屁(へ)の話などを書いている。ところが、この雑誌も廃刊になると、いよいよカネのない安吾は菊富士ホテルを逃げだし、取手(茨城県)へと引っ越し、原稿の依頼もないまま空々漠々たる日々を送る。
〈で、悲しいまでのヒマの毎日。それで安吾はヒマがあれば散歩した。また用があれば東京へでていくことを厭(いと)わなかった。この東京行きの短い往復で、何たる幸運か、安吾さんはその精神にぐんと響く「風景」や「モノ」を見る機会があったのである〉
なるほど、作家はいくらヒマなさなかでも、目を見開いているようである。
つづきはまた。


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