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『坂口安吾と太平洋戦争』(半藤一利)を読む(2) [本]

茨城県の取手に暮らしたのは9カ月ほど。1940年(昭和15)1月、安吾は三好達治の誘いで小田原に移り住む。三好に紹介されたのは、6畳と4畳半の二間からなる借家で、家賃は10円。いまの値段でいえば月3万円ほどか。
安吾は毎朝5時ごろに起きて机に向かい、かならず昼まで仕事をしていたというから見かけによらず勤勉である。食事は三好の家ですませたというあたりは、ちゃっかりしている。典型的な貧乏作家で、文壇とは無縁の存在だったと半藤は書いている。
このころ発表した作品は少ない。それでもキリシタン関係の歴史を勉強し、『文學界』に小説「イノチガケ」を連載する。ザビエルの来日から島原の乱までが前編、後編ではシローテと新井白石の問答が記されているという。
〈そして夜ともなれば例によって町の呑み仲間と小田原の町で深酒である。借家に鍵もかけないで、酒場でオダをあげていた。泥棒のいることなんか全然気にしない。当たり前である。何にもない家である〉
それでも安吾が年末にしばらく家を留守にしているときに、この家に泥棒がはいって、しばらく逗留していた、と半藤は書いている。このあたり話の呼吸がじつにうまい。
日本は太平洋戦争へまっしぐらに進んでいた。
1941年(昭和16)、「現代文学」という雑誌から安吾にお呼びがかかる。大井広介、平野謙、荒正人、佐々木基一などが同人。
〈どちらかといえば、左翼的な評論家と、軟派と目されている作家の集団、言いかえれば超国家主義的な時局には非協力的なメンバーばかり。いや、当時にあってはむしろ日陰の同人雑誌グループということになろう〉
少しばかり原稿料も出たらしい。同人たちがたむろしたのは代々木の大井広介宅で、ここに安吾は月に10日くらい入りびたっていたという。
大井広介は本名が麻生賀一郎で、麻生太賀吉(麻生炭鉱、麻生セメント社長、麻生太郎の父)の従兄弟にあたる。大井宅でくり広げられるトランプや卓上野球、それに犯人当てゲームと、まことにたわいない遊びが、安吾にとってはのちの推理小説の水脈につながったというから、遊んでいても作家というものは何かをつかみとるようだ。
半藤はこの年「現代文学」に掲載された安吾の「死と鼻唄」というエッセイが痛快だと絶賛している。その書きだし。
「戦争の目的とか意義とか、もとより戦争の中心となる題目はそれであっても、国民一般というものが、個人として戦争とつながる最大関心事はただ『死』というこの恐るべき平凡な一字に尽きるに相違ない」
国家の大義など、ふっとんでしまっている。
12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を急襲したとき、安吾は小田原で看板屋をしている友人の家で目を覚ました。しかし、開戦の報を聞いても動ずることなく、その友人と近くの町にまぐろを買いに行って、その店先で酔っぱらっていたという。
何の感慨もなかったわけではない。この日のことを、のちに安吾はこう書いている。
「もっとも私は始めから日本の勝利など夢にも考えておらず、日本は負ける、否、亡びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めていたのである。だから私は全く楽天的であった」


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