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江戸時代、日本は貧しかった [本]

『10万年の世界経済史』を読む(2)

世界の人口は紀元前13万年ごろ10万人ほどだったが、西暦1800年には7億7000万人に達した。しかし、その間、人々の物質的生活水準は、技術的進歩があったにもかかわらず、むしろ下がっていたという。子供の数が増えるなかで、サバイバルすることが最大の課題だった。
〈マルサスとリカードは、出生率が一定であるかぎり、経済成長によって、人間の生活環境は長期的には改善されないことを予測していた。経済が成長しても、最低生活水準の所得で暮らす人口が増えるだけだったのである〉
これが、1800年以前の経済の掟だった。むしろ悪政や戦争、疫病などによって死亡率が上がったときのほうが、生活水準も上昇したと著者は書いている(その通りかもしれないが、死亡率を上げるために死にたいと思う人はいないはずである)。
新石器革命により、人類は狩猟採集生活から農耕定住生活へと移行した。たしかに食料は増加しただろう。しかし人口も一挙に増大したため、生活水準はむしろ下がり、飢えと戦争がもたらされるようになった、と著者は考えている。
1800年ごろの英国で、たとえば農業労働者はどういう暮らしをしていたか。
〈いったん雇われれば、年に300日は働き、休めるのは日曜とたまの休日だけだった。冬場は、日がのぼっている間はずっと働きづめだった。食事はパンに小さなチーズ、ベーコンの脂、薄い紅茶ぐらいで、成人男性ならそれにビールを追加した。きつい肉体労働のわりにはカロリーの少ない食事で、人々は空腹に悩まされることも多かったにちがいない。……調理用の燃料は高価だったため、暖かい食事はめったに食べられなかった。照明用のろうそくも高嶺の花で、労働者は日が落ちればたいてい床に入った。彼らの望みは、年1回は着る服を新調することだった。家族5、6人が2部屋だけの小さな家に住み、薪や石炭を燃やして暖をとっていた。食物や衣服、熱、光、住居など、彼らの消費したもののほとんどは、古代メソポタミアの住民にもなじみのあるものだったはずだ〉
衣食住の文化はちがうにせよ、日本人もまたつい150年くらい前までは、たしかにこういう暮らしをしていたのだ。古代メソポタミアと変わらないと言われても、そうかもしれないなと妙に納得してしまう。
それでも1800年の英国の労働者は、現在のマラウイの労働者にくらべて、はるかに豊かだというのだから、サハラ以南の国の貧しさには、目をおおいたくなるほどである。こうした分岐がおこったのは、しかし、近代になってからだと考えている。
狩猟採集社会がけっして貧しくなかったことは、たとえばタヒチ人の身長が高く、また食べ物も実にバラエティに富んでいたことをみてもわかる。その技術はヨーロッパ人より劣っていたかもしれないが、1800年ごろのロンドンの労働者が年300日以上、1日10時間以上働いていたのに対して、狩猟採集民は1日数時間しか働かなくても、そこそこのカロリーを摂取することができた。「自給自足社会で暮らす男性は、豊かな現代ヨーロッパの住民よりも、年間で1000時間も長い余暇をすごしている」というのだ。
〈中世の西欧では、ペストの流行が始まった1347年から、人口が増え始めた1550年にかけて、物質的生活水準は並はずれて高く、現代の最貧国の基準に照らしても豊かだといえるほどだった。ヨーロッパ人と接触する前のポリネシア人も、豊かな生活を送っていたと考えられる。これに対し、18〜19世紀の中国やインド、日本はきわめて貧しかったようだ〉
人口と生活水準との相関関係は否定しがたいものがある。江戸時代の日本はほんとうに貧しかったのだ。


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