SSブログ

『狼疾正伝』短評 [本]

 この本を読むまで、中島敦については、ほとんど知らなかった。昔、「国語」の教科書か何かで、「李陵」か「弟子」の一部を読んだ程度で、そのときは先生から、道義と信念をもって生きることがだいじなのだと教えられたような気がする。中島自身に関しては、端正な文体で中国の古典を現代によみがえらせながらも、みずからは若くして亡くなった孤高の文学者という印象しか残っていなかった。
 ところが、川村湊の重厚きわまりない本書を一読すると、そんな行儀のいい、教科書的なイメージはたちまち吹っ飛ぶ。中島敦は、日本がまだ帝国と呼ばれていた時代の最後を、人生に煩悶し、病に苦しみ、植民地統治の現実に怒りながら、文学者として立つことをめざして、さっそうと駆け抜けていった青春そのものなのだ、と思うようになった。
 東京・四谷で生まれたのは1909(明治42)年のことで、ことしは生誕100年にあたるという。生誕100年というと、何といっても太宰治だが、実は大岡昇平、埴谷雄高、松本清張も同じ年の生まれと聞くと、ちょっと意外な気がしないでもない。しかし、太宰の100年に比べると、中島の100年はたしかに地味ではある。
 持病の喘息が悪化して、1942(昭和17)年に世田谷の病院で亡くなったときは33歳だった。太平洋戦争が始まり、大東亜共栄圏の勇ましい掛け声が、ミッドウェー海戦の敗北や、米軍のガダルカナル上陸で、むなしく響くようになりはじめていた。
 代々、漢学を教える家系に育っている。父親も中学の漢文教師。母親は敦が生まれてから、すぐに離縁された。そのため、父との関係はギクシャクしたものになった。父の転勤が多かったため、日本各地を転々としたあと、ソウルに移り、京城中学を卒業、その後、第一高等学校、東京帝国大学へと進んだのだから、からだが弱いとはいえ、頭脳は明晰だったのだろう。
 大学を卒業してすぐに結婚し、二子をもうけた。父親と同じ教師の仕事に就き、横浜の女学校で国語と英語を教えていた。
 本のタイトルとなった「狼疾」は、「孟子」を典拠とし、一指に気をとられて、肩や背を失うのに気がつかない状態を指す。中島は狼疾の人だった。たとえ身を滅ぼそうとも、書くことへの執念をいだきつづけていたからである。
 子どものころから、この宇宙(社会)が滅びるのではないかという思いにさいなまれていたが、一種の崩壊感覚のなかで、しっかり自我を保とうとしたところに、かれの風格が生まれたと川村は理解している。
 中島敦は日本帝国が虚栄に満ちた張りぼてであることを、しっかりと見据えていた。中国を舞台にした作品が印象的だが、大陸だけではなく南洋への志向もあったことを、この本で知った。太平洋戦争の始まる直前、女学校を休職して、南洋庁の嘱託として、南洋群島をめぐっている。『ジキル博士とハイド氏』などで知られる、小説家スティーヴンソンのサモアでの晩年を描いた名作『光と風と夢』は、南洋に出かける前に書かれ、「山月記」などとともに、親友の深田久弥に預けられていたという。
 日本に帰国後、残されたわずかの時間につづられた「李陵」からは、軍部への批判にとどまらず、帝国の敗北の予感と、たとえ戦争に敗れたとしても人として凜として生きるというメッセージさえ、切々と伝わってくる。
 本書は作家論であると同時に作品論でもある。短篇のイメージが強い中島敦が、実はスケールの大きい長篇作家になる可能性を秘めていたことを知ったのも収穫だった。最近、こういう風格あふれる作家がいなくなったのはいかにも寂しい。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0