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影膳の話 [柳田国男の昭和]

《連載114》
 1944年(昭和19)10月13日午後2時、柳田国男作の「影膳の話」がラジオで朗読され、全国に流された。元の原稿は9月末にできあがっていたから、放送までに2週間ほど間があった。

〈影膳というのは、家を離れてしばらく帰ってこぬ者のために、食事を調え、ご膳を据えることで、子供ででもなければ、みな知っている言葉であるのみならず、今まではただ話に聴いていただけなのが、今回の大戦役以来、目に触れ問題になることが多くなりました〉

 けっして威勢のいい話ではない。
 ヨーロッパではノルマンディー上陸作戦のあと、連合国軍がすでにパリに入城していた。いっぽう南洋諸島では米軍がサイパン島、グアム島を占領した。日本本土はすでにB29による攻撃の射程にはいっている。北九州への空襲がすでに始まっていた。
 不人気な東条英機内閣は7月18日に総辞職し、次の首相に朝鮮総督で陸軍大将の小磯国昭が任命された。海軍大臣には米内光政が就任する。国男の友人で、朝日新聞元編集局長の緒方竹虎も、このとき国務大臣兼情報局総裁になっている。
 国内の融和をはかり、日本本土、台湾、フィリピンを防衛第一線とすることが新内閣の目標として掲げられていた。決戦内閣といえば聞こえがいいが、防戦一方の構えである。そして、早くも10月20日には、フィリピンのレイテ島に米軍が上陸を開始する。
「影膳の話」が放送されたのは、そんな時期である。
 その背景には、若者にとどまらず、一家の大黒柱までが大勢、戦争にとられていたことがある。
 国男は、日本各地に残る風習をあれこれ紹介しながら、次のようなせつないエピソードをつけ加えている。

〈だれが言いはじめたものか、全国にわたって、影膳の椀のふたに露がたまっているかぎり、本人はじょうぶでいるものといって、今でも母とか祖母とかは、あとで必ず椀のふたをとって見ることになっています。温かい食べ物を早くそそって、丁寧にふたをすれば露は必ずたまります。つまりは家の者のねんごろな志が、遠く離れている当人にも届くわけであります〉

 これは昔ながらの影膳には見られなかった最近の風習だった。遠く離れている者にも、温かい食べ物を食べさせてやりたいという願いと、椀のふたに露がつくことを毎日見届けることが、本人の無事の確認につながるという切ない思いとが合体して、影膳の風習に新しい様式を持ちこんでいるのだった。
 放送の最後は、こう結ばれていた。

〈海に出たままで消息のない人の数は、日本の島々には昔から多うございました。佐渡の島などではそういう場合にも、はっきりしたことの判るまでは、半年でも1年でも毎日の影膳をつづけているということであります。おそらく、これによって本人たちの運命を好転しうるという望みを持っているのであります〉

 海に出たまま戻ってこないのは、よほど特別の事情がないかぎり、海で遭難し、命を落としているのである。佐渡では、それでも家族は、何か奇跡がおこり、本人が助かって、いつか戻ってくることを願って、半年でも1年でも影膳を据えつづける。
 あくまでも民俗学の話という体裁をとっているが、いま海に出るとは、外地で戦うことにほかならなかった。国男はいくさについて言及しているわけではない。ただ、放送を聴く人にはわかったはずである。戦争に勝てるなら、それに越したことはない。だが、家族の思いは、いくさの勝ち負けにかかわらず、国の都合で外地に送られている大切な人が、一日でも早く無事、家族のもとに戻ってくることだった。
 戦争はそろそろ終わりにしてほしい。国男が代弁したのは、そんな国民の声だったともいえる。


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