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古稀を祝う会 [柳田国男の昭和]

《連載116》
 [1944年]10月8日の日曜日には、銀座の泰明小学校講堂を借りて、[柳田]国男の古稀を祝う記念会が開かれた。60人ほどが集まったが、半分ははじめて見る人だった。
 日記には「石黒、橋本、石田、小山、武田などの諸君来り、いろいろ昔のことを話してくれる。折口君座長、10時すぎ始まり午時会食、4時半ごろまで話をしてわかれる。よき思い出なり。折口君から白い飯の弁当と魚、石黒氏は足袋などをくれる」とある。
 折口信夫が座長になって、元農林相の石黒忠篤、国語学者の橋本進吉、歴史学者の石田幹之助、民族学者の小山栄三、国文学者の武田祐吉などが話をしたことがわかる。
『柳田国男伝』は、この日の古稀記念祝賀会の様子を次のように伝える。

〈祝賀会は午前10時、折口の司会で始まった。橋浦による記念事業の進行状態や民間伝承の会の報告があったあと、柳田が、日本民俗学の成長に対する感想を述べた。石黒忠篤は「郷土会」時代の回顧談や、農政家・政治家としての柳田の横顔を紹介し、時局柄、各自手弁当の祝宴であったが、味噌汁だけは大判振る舞いされて、「共同食事の実」をあげたのである。午後は石田幹之助と小山栄三が雑誌「民族」、「民俗学」時代についての回顧談を披露し、つぎに出席者全員で、自己紹介と感想を述べあった。
 会は折口が長歌「遠野物語」の朗詠があって、つつがなく閉会するが……この古稀記念会の主催をもって、民間伝承の会は、その活動のいっさいを停止した〉

 柳田の古稀を祝う会は、民間伝承の会にとっては、最後の行事でもあった。会場となった泰明小学校は、翌年1月に空爆され、さらに5月の2回目の空襲で、全館が焼失することになる。
 しかし、国男にとって、この古稀を祝う会は、なえかかっていた精神のよみがえりをもたらす,ひとつの転機となった。この日を境に、ふたたび仕事への熱意が戻ってくるのだ。わが身の行く末はともかく、最後のひとがんばりをしなければならないという覚悟が定まったのである。
 10月半ば、庭の木を刈って、薪をつくった。自分で炭を焼くつもりだった。
 5月に国際電気通信講習所で「先祖の話」と題する講演をして以来、すべての講演依頼をことわってきたが、人前で話をしたいという意欲も戻ってきた。神祇院で「敬神と祈願」と題する講演をおこなうのは10月15日のことである。
 ちなみに神祇院は内務省の外局で、1940年(昭和15)の紀元二千六百年記念式典に応じてつくられた、全国の神社を管轄する役所である。現在の神社本庁はその後身だといってよい。この日の講演は、国男自身は上出来だと思ったが、聴衆の反応があまりかんばしくないので、少しがっかりしたようだ。
 行き帰りの電車の混雑は、すさまじいものがあった。「かえりに新宿にてえらい雑踏、1時間近くもおくれて帰着。行きがけには転び、これでもうこりごり」と記している。
 10月17日の日記には「週刊朝日の記者小川薫君来、もう一度『村のすがた』を始めてくれという話、おおよそ承知」とある。22日には早くも再開第1回目の原稿を渡している。気力が戻ってきたのだ。

「週刊朝日」の「村のすがた」は、最初6月から9月まで11回掲載され、2カ月休んで、11月から終戦直前の翌年5月まで「続村のすがた」として30回分がつけ加えられた。1回は400字の原稿用紙に直せば3枚ほどで、毎回、野口義恵の挿絵がついていた。
 ごくありふれた故郷の村の1年を挿絵つきのエッセイで振り返る、というのが編集部のねらいだった。途中、2カ月ほど休載があったものの、都市への無差別爆撃をも伴う戦争末期の不安な時期に、1年をとおして、よくこんな悠長な企画が巻頭の1ページを飾ったものである。
「週刊朝日」側の条件は、「少しもいくさの問題を取り上げぬように」という点に尽きていた。それは軍部からの干渉を恐れたためでもあったが、戦時色で誌面が埋まるなかで、このページだけが、だれもがかつて見たことのあるなつかしい村の風景に満たされるという効果をもたらすことになった。
 国男自身ものちに、これが単行本化されたときの序文に、「はたしてこれが現在の村の姿、日本の常の人の生活の、そっくりそのままだと言い切れるかどうか、今は過ぎ去ったと言わねばならぬ部分が、少しずつはもう出来ているのではないか」と疑いをはさんでいる。日本の農村風景は、昭和のはじめと戦時中、さらに戦後とでは、大きく変わっていたのだろう。
「村のすがた」が取り上げているのは、田植えや祭り、ユイ仲間、盆の行事、水の苦労、秋のつるし柿や掛け稲、稲の貯蔵法、わら細工、いろりの楽しさ、正月迎えの準備、餅の話、新春の山入り、山村の生活、道祖神や御山木、沓掛や足手荒神、もらい湯の思い出など、実に多岐にわたっている。
 その多くが、そういえば子どものころ、そんなことがあったなと、なつかしさがこみあげてくる光景を彷彿とさせるのだった。
 そんな「村のすがた」を心に刻みつけているかぎり、どんなことがあっても日本は滅びないと国男は思っていた。村を通して、日本人の心を描いていたのである。


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