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炭焼きと空襲 [柳田国男の昭和]

《連載117》
 昭和19年(1944)11月4日、柳田国男は成城の自宅庭にちいさな炭がまを築きはじめた。一日作業をして、ようやく形らしいものができあがる。途中、スコップをどこに置いたかわからなくなり、それを探すのに手間どったけれど、夕方、柿の実をもいで、ことしは豊作だなと、ひとしお感慨を覚えたのは、仕事の達成感がなせる業だったかもしれない。
 翌日はかまの下の土を掘る。さらに、その翌日も炭がまづくりのつづき。隣家から石の板をもらってきて、それを焚き口にし、落ち葉をいっぱい入れた。そのあと、どうすればよいか、わからないところがあったので、急ぎ久我山に住む弟子の橋浦泰雄のもとを訪れるが、本人は不在で会えなかった。
 11月9日、橋浦を自宅に呼んで、いよいよ炭焼きをはじめた。ところが前日の雨で、かまに水が浸入したのと、落ち葉がしめったせいで、火入れがなかなかうまくいかない。なんとか火がついて喜んでいたら、翌朝になって火が消えそうになったので、あわててまた橋浦に連絡し、かまを築きなおしてもらった。すると、煙がまた勢いよく出はじめたので、胸をなでおろす。それでも、夜中、気になって、何度も起きて庭に出てみた。
 次の日、朝起きてみると、かまから煙がでていないので、がっかりする。失敗のようだ。橋浦も復活はむずかしいだろうという。つづいて、何度かためしてみたが、とうとう薪に火は移らなかった。
 気を取り直し、かまを崩して、築きなおすことにした。17日午後3時に火入れ。夕方、白い煙を見て満足する。翌朝も、炭がまは順調に燃え続け、19日になってかまの穴をふさいだ。マテバシイやスズカケの小枝をきった。次回の燃料にするつもりだ。橋浦が心配して、様子を見に来たが、「成功したよ」というと、安心して帰っていった。
 ところが、である。22日になって炭がまを開いてみると、半分は灰になり、4分の1は生木、かろうじて炭になったのが4分の1で、炭取りにわずか5杯あまりの収穫。期待が大きかっただけに、少しがっかりする。
 それでも国男はめげずに、翌日、同じかまで2度目の挑戦をはじめる。2日後、かまの口をふさいだ。今度は温度が低くなりすぎた気がしたが、ともかくも2、3日置いてみることにした。そして27日、期待半分、不安半分で、かまを開いてみると、灰になっているものは少ないけれども、炭はみんなちいさく切れていて、成功とはとても言えそうもなかった。
 3回目の火を入れたのは12月5日のことだ。薪はたっぷり用意した。最初にかまを暖める程度に火をたけばいいことに気づいた。うちわであおいで、無理やり温度を高くする必要はない。しかし、次の朝、庭先をみると、夜のうちにかまの煙出しが倒れてしまっていた。生焼けが多いかもしれないと不安がよぎる。それでも、いちおうかまの口をふさいでみる。不安は的中。2日後、かまを開いてみると、やはり火がよく回らなかったらしく、案の定、生焼けと灰が多かった。嘆息すること、しきり。収穫は炭取りに2杯ほど。古い材木を使ったのが悪かったのかと思ったけれど、後の祭りだ。
 12月11日、いよいよ失敗の炭がまを崩し、庭に埋めた。
 短い炭焼き事業は、ほとんど成果もなく、失敗のうちに終わったといえるだろう。
 炭を焼いてみようかと思ったのは、もともと石炭をあてにして建てられていたチロル風の自宅が、燃料不足をきたしていたからである。石炭が手に入らなければ、その代用として木炭をと思いついたのが、そもそものきっかけだった。しかし、そのもくろみは、炭焼長者の伝説を思い浮かべさせただけで、むなしく途絶する。その冬を国男は手あぶりと置きごたつにかじりついて、すごすほかなかった。

 国男が炭焼きをこころみた時期、東京はけっして平穏だったわけではない。連日のように空襲警報が発令されるようになり、11月24日にははじめての本格的な首都空襲があった。
 11月7日の「炭焼日記」には、「午時〔正午〕少し過ぎ空襲警報、庭に出て飛行機雲の白きを見る。敵はただ一機なれど騒ぐ」とある。
 そして、11月24日。「正午少し前空襲、3時前まで。後に聞く。杉並、本所、品川などに多少の損害ありと。ここ〔成城〕にても高射砲のひびき硝子窓をふるわす、子供〔孫たち〕神経過敏になる」
 国男はそう書いているが、この日、実際に大きな標的となったのは、武蔵野町(現武蔵野市)にある中島飛行機の工場だった。もちろん、そんなことは新聞でもラジオでも発表されない。
 11月25日と26日にも警戒警報が出たが、空襲にはならず、29日に2度空襲があった。「終夜よくねられず、ただし[防空]壕には誰も入らず」
 12月3日。「1時頃から空襲、3時半まで、空はれて敵機よく見える。折々はこっちの空へまわる。始めて防空壕へ入る」
 12月7日。「昨夜1時半頃警戒警報、空襲すぐにあり。12機帝都の上に来るといえり。起き出さず」
 12月8日、9日、10日、12日、13日にも空襲警報がなり、空襲はなかったものの都民はろくろく眠れなくなった。空襲警報はその後も連日連夜つづく。
 12月27日。「きょうも午時警報。このたびは7編隊60余機という、少し気味わるし。空青々として空中の戦よく見える。敵機の落ちいくさまも見つ、日本機の落ちたるを見たりという人もあり。3時頃すむ」
 国男も次第に空襲慣れしていく。
 大晦日の日記は「わびしき年暮る。この後警報3度、所々焼く」というそっけない記述で終わっている。だが、東京への本格的な空襲がはじまるのは、むしろこれからだった。


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