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村と学童 [柳田国男の昭和]

《連載119》
 国男は『村と学童』を、疎開を強いられた子どもたちを励ますために書いた。必要に迫られたとはいえ、半ば興味本位ではじめた炭焼きが、案の定、失敗に帰したあと、国男は空襲が迫るなか、次世代の子どもたちに祖先の歩んできた道を静かに伝えることに、みずからの使命を見いだそうとしていた。
 疎開は子どもたちにとっても、つらい経験にちがいないが、いっぽうでは得がたい機会でもあり、滞在先の村には、都会では得られなかった発見や疑問も見つかるだろう。それを手がかりにして、みずからの頭で、これまでの祖先の歩みを考えるきっかけが生まれ、自分たちがけっして孤立していないことがわかってもらえるなら、つらさにまさる経験になるだろう、と国男は思っていた。
 終戦直前の7月に書かれることになる「はしがき」の末尾には、こう記されている。

〈世が治まり国がますます栄えていく際におよんで、この大切な[歴史の]知識を人生の役に立て、またはこれを一段と正確なものにして、次の代へ伝えるのも諸君の任務である。そういう諸君のためにならば、私はまだこの上にも働いてみたいと思っている〉

 はたしてこれが終戦直前に書かれた文章なのだろうか。「世が治まり国がますます栄えていく際」というのは、韜晦(とうかい)でないとすれば、あまりにも皮肉に聞こえる。だが、おそらく国男は敗戦によって、戦争が終わることを予想していた。敗北を滅亡と考えるのはまちがいだ。むしろ、敗北による苦難をへて、国はますます栄えるのではないか。国男は本気で、そう予感していたように思える。
 歴史がつづくかぎり、エトノスとしての国は滅びない。この場合の歴史とは、政治のできごとではなくて、生活のありようを指している。それならば、人の人としての任務は、そうした歴史を継承し、次の代へと伝達することにあるのではないか。民俗学の意義は、これまで文字に残されてこなかった常民の生活史を記録して、後代に伝えることにある。官僚やジャーナリストをへて、民俗学の地平を切り開いてきた国男は、むしろ現実の政治への介入を避けることによって、ほんとうの歴史につながることができると考えていたのではないだろうか。
 たしかに『村と学童』は武張った本でも、政治的な愛国心をあおる本でもない。軍国政治を批判する本でもない。静かに炉端につどって、先祖の思いや祈りに耳傾けるような話のかずかずから成り立っている。
 冒頭の「母の手毬歌」は国男の母の思い出をつづった一文である。近ごろは手まりはゴムでできていて、そのゴムも戦争の影響で、なかなか手にはいらなくなっているが、昔の手まりは、もめん糸を巻いてつくられていた。子どもが手まりをついて遊ぶようになったのは、そう古くからではないが、遊ぶときには、かならず歌をともなった。しかし、手まりにはもうひとつ別の遊び方があった。それは空に高くあげて、手に受けてまたあげるという遊びで、このときの歌はたまの高さによって、長くなったり短くなったりする。
 母が幼いころ、高くたまをあげて覚えた手まりうたを、よく歌ってくれたことを国男はいまでも思いだす。その歌はどことなくユーモラスで、よく味わってみれば、そこからは昔の国のありさまや、昔の人の心持ちが伝わってくるのだった。
「親棄山」は、親が60歳になると山へ棄てなければならないという伝説を論じていた。この物語はインドや中国の説話をもとにしているが、日本でできた部分もある、と国男は指摘する。それが姥捨山(うばすてやま)伝説なのだが、実際にそういうことがあったわけではなく、むしろ子が親を捨てるという極端なドラマのうちに、かえって母が子に示す無限の愛情を感じとることができるのだ。
 それぞれのエッセイが味わい深いが、ひとつひとつ紹介していては切りがない。ここでは益田勝実の解説を引用しておくことにする。これで、この本の全体像はほぼつかめるはずだ。

〈[『火の昔』と同じく]『村と学童』もその[生活史を記述するという]点は少しも変わらない。ただここでは、生活の根本、人間の最大の武器〈火〉について語るというふうなこわもてをせず、「母の手毬歌」から遊びの変化に気づかせ、その中に残る歴史的伝承に興味を抱かせ、次には、「親棄山」で伝承された昔話について語り、さらに「マハツブの話」では、遊びに使うほおずきの名が負う昔話から織り物の話に進み、屋根の形を中心にした「三角は飛ぶ」から「三度の食事」に進んで、なぜ二度食事していた日本人が三度食事をするようになってしまったか、と衣・食・住へ問い進め、しだいにこどもたちを重要な話に誘い入れる、こまやかすぎるほどの心づかいをしている……。食事と労働との関係を語ったかれは、さらに労働の歴史を「棒の歴史」として展開することで終わっている〉

 さらに益田は次のように述べている。

〈[『村と学童』に見られるような]遊びの歌から衣・食・住・労働へと関心を移させていく歴史教育の体系化は、その内容の卓抜さとともに、1945年という時点での歴史教育の実際の状況をはるかにぬきんでている。今日においても、このような民衆生活中心の徹底した具体的現実にもとづく体系的歴史教育書は、まだ出現していない〉

『村と学童』は、戦争末期に柳田国男が次世代のために残そうとした、歴史教科書なのだった。

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