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日露戦争とは何だったのか [本]

【『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む(3)】
 次は日露戦争について。
 日本が日露戦争の勝利によって得た最大の戦果は、韓国──ここで韓国と書くのは、朝鮮は1897年から1910年まで国号を大韓帝国と称したからだ──を併合し、植民地としたことだと著者は書いている。そう考えると、日露戦争は表向きのはなばなしい戦いの様相とは異なり、けっきょく朝鮮(韓国)をめぐる日本とロシアのあいだの戦いだったということになる。
 この戦争で日本もロシアも20万人以上の戦死傷者を出した(うち日本の戦死者は8万4000人、ロシアは5万人)。日清戦争のときの戦死傷者が日本側1万6000人、清国側3万5000人だったのにくらべれば、はるかに大きな戦争である。ただし、のちの15年戦争(満州事変から太平洋戦争まで)の日本の戦死者(民間を含む)が310万人以上だったことを考えると、昔の戦争はまだ牧歌的だった。
 日清戦争に勝利したものの、日本は朝鮮国内で主導権を確保することができなかった。むしろ朝鮮の朝廷は、日本よりもロシアに傾斜していく。力で押してくる日本への反発がよほど強かったのだろう。
 このころロシアはシベリアの南、つまり満州に勢力を伸ばそうとしていた。ロシアは中国と条約を結び、シベリア鉄道の支線として、満州内を通る中東鉄道(東清鉄道)を敷設する権利を獲得。さらに日本が三国干渉によって放棄させられた旅順・大連を租借することにも成功する。そのうえ、中東鉄道の主要駅ハルビンから旅順・大連にいたる鉄道まで敷設するというのだから、日本側は戦々恐々とする。
 中国では義和団の乱が発生、北清事変へと発展する。これに乗じて、ロシアは満州の一部を占拠し、そのまま軍の駐留をつづけた。危機感をいだいたのは日本だけではない。イギリスも同じである。そこで1902年に日英同盟が結ばれることになる。
 日本の指導部はロシアとの戦争には慎重で、むしろ外交交渉に希望をいだいていた。このときの交渉の眼目は、日本はロシアの満州における特殊権益を認める代わりに、ロシアは朝鮮における日本の優越権を認めるというものだ。しかし、ロシア側は強硬で、満韓交換論どころか、朝鮮半島(韓半島)への進出さえ辞さない構えを崩さなかった。
〈戦争を避けようとしていたのはむしろ日本で、戦争を、より積極的に訴えたのはロシアだという結論になりそうです〉と著者は説明している。
 日清戦争と同じく日露戦争も大国のパワーのもとでたたかわれていたことがわかる。日本の背後にはイギリスとアメリカがいた。ロシアを応援していたのはシベリア鉄道に多額の投資をしていたフランスとドイツである。
 日本にとっては朝鮮が問題だった。ところが大国の思惑は、朝鮮よりも、むしろ満州だった。ここは巨大な市場となる可能性を占めていたのだ。イギリスとアメリカは満州におけるロシアの影響力をできるだけ抑えておきたいと思っていた。そうしたイギリス、アメリカの狙いが、日本の肩を押したと著者は考えている。
 日本が朝鮮をみずからの勢力圏に収めようとするかぎり、おそらく日露戦争は避けられなかっただろう。ロシアのシベリアからアジアへのかぎりない膨張を中国は阻止できず、満州を早々とロシアの手にゆだねようとしていた。このままいけば、ロシアはどこまで膨張するのかと、当時の日本の指導部が危惧をいだいたのはよくわかる。政権の不安定な朝鮮までもがロシアの手に落ちれば、次にねらわれるのは日本かもしれないと思ったのも不思議ではない。
 そんなきびしい時代だった。

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