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成功のもたらした危機 [本]

【『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む(4)】
 第一次世界大戦に著者は多くのページを割いている。
 この戦争は日本では当時「欧州大戦」と呼ばれ、遠い戦争だと思われていた。事実、戦闘の主な舞台となったのは欧州で、1000万人にのぼる戦死傷者が出ている。だが、この戦争が「第一次世界大戦」と名づけられるのは、戦局に日本とアメリカがかかわったからである。
 日英同盟を結んでいるよしみから、日本はイギリスに味方をし、ドイツと戦う。日本軍はたちまちドイツ軍の青島基地を攻略し、南洋のドイツ領の島々を占領した。日本側の戦死傷者は1250人にすぎない。この戦争で、日本は中国・山東半島のドイツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を獲得することになる。
〈日本の場合は、貿易のため社会政策〔たとえば人口問題の解決〕のためというよりは、第一に安全保障上の考慮というものが大きく働いていたといえそうですね〉と著者は語っている。
 なぜ、山東半島と南洋諸島が安全保障上のかなめとなるのか。
 そのころアメリカはハワイ、サモア、フィリピン、グアムを自国領に組み入れていた。日露戦争で勝利した日本にアメリカが脅威をおぼえはじめていたのではないかと著者はいう。
 日本が南洋諸島を押さえ、海軍の基地を建設しようとしたのは、アメリカとの対抗上、ここが重要な戦略的拠点になると考えたからである。この予感はまちがってはいない。ドイツが敗れた時点で、ここがアメリカの拠点となっていたら、日本は最初からアメリカと戦えなかっただろう。
 火事場泥棒的といわれるけれども、日本海軍の動きはたしかに機敏だった。
 山東半島のドイツ権益で重要だったのは、青島もさることながら、青島と済南を結ぶ膠済(こうさい)鉄道だった。日本はこの鉄道を手に入れることで、東側(つまり旅順、大連と南満州鉄道)からだけではなく、南側からも北京を扼する軍事的拠点を確保した。中国にとっては、まさに死命を制されたかたちだった。
 こうした実力行使を経て、日本は袁世凱政権に、いわゆる「対華二十一カ条要求」を突きつけるのだ。ヴェルサイユで講和条約が結ばれる前に、中国とさっさと話をつけておこうという意識が濃厚だった。しかし、これに対しては、中国国内から大きな反発が巻き起こる。
 もうひとつ第一次世界大戦中に日本がどさくさにまぎれて獲得したものがある。日露戦争のあと、日本とロシアは協調姿勢をとるようになっていた。第一次世界大戦で日本はロシアに武器を提供する代わりに、満州の南半分の利権を獲得する。いわゆる「第4次日露協約」である。
 こうしてみると、ほとんど戦いらしい戦いを展開せず、戦死傷者も少なかったにもかかわらず、第一次世界大戦世界大戦で日本が獲得した利権は、不釣り合いなくらいに大きかったといえるだろう。
 にもかかわらず、かえって日本は危機感をいだくようになったと著者はいう。イギリスやアメリカが日本に警戒感をもちはじめたからである。「二十一カ条」をつきつけられた中国が、日本への怒りを覚えていたこともまちがいない。そして、お膝元の朝鮮では三・一独立運動の嵐が巻き起こる。日本の成功は、かえって「内外」からのさまざまな反発を招いた。日本の危機感はそうした反発の裏返しだった。
〈パリ講和会議で日本側が負った衝撃や傷は、1930年代になってから、深く重くジワリと効いてくるのです〉と著者は書いている。
 日本はみずから四面楚歌の道を選ぼうとしていたようだ。

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