SSブログ

野の教育者として [柳田国男の昭和]

《連載137》
 1946年(昭和21)7月25日から27日にかけて、柳田国男は靖国神社の文化講座で、「氏神と氏子」という連続講演をおこなった。
 そのころの状況については、前に書いたのでくり返さない。すでに天皇は「日本国およびその国民統合の象徴」として存続する方向が定まり、神道も国家と完全に切り離されるかぎりにおいて、自由に信仰することが認められていた。とはいえ、けっして安心できる状況ではなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の改造が何をもたらすか、先行きは混沌としていたからである。
 夏の講演がはじまるまで、国男は安閑と日々を過ごしていたわけではない。70歳を越えたとはいえ、何せ闘う老人なのである。憂国の念が、かれを駆り立てていた。
 筑摩書房から発行されはじめた雑誌「展望」では、4回にわたり国語教育への提言をしている(「喜談日録」)。そのほか、本来なら『村と学童』に収録するはずだったのに、ページ数の関係で落とされてしまった論考が、連載や談話の体裁をとりながら、次々、雑誌に発表されていた。
 2月には「新国学談」3部作(当初は5部作になると考えられていた)の2冊目となる「山宮考」をほぼ書き上げた。エッセイ風の軽い読み物ではなく、本格的な神道論である。
 1冊目の「祭日考」では、神社の祭日がもともと2月(または4月)と11月の2回で、稲作のリズムと関係していたこと、そしてその祭りは、稲の恵みを与えてくれた先祖神(氏神)への感謝をあらわすものだったことがあきらかにされていた。『柳田国男伝』のまとめを借りれば、それに対し「山宮考」はこんな内容からなっている。

〈……『山宮考』において柳田は、山宮と里宮の関係に注目する。神社のなかには二つの祭場を有する社があるが、山頂などの高いところの祭場を山宮といい、それに対して村里にある社を里宮と呼んでいる。柳田は、この山宮と里宮との間を農耕の神が移動すると考え、春に山から降って田の神として里宮に鎮座し、秋の収穫がすめば山に帰って山の神になると考えた。そして春秋の両期、神を迎えて営む祭りが氏神祭であり、それは柳田が『祭日考』で説いた2月ないし4月と、11月の祭りであった。柳田がこのように結論づけたのは、人は死後、その霊魂が山中で鎮まり、年を経て祖先神となると信じられている、日本人の祖先観や山中他界観を背景にしてのことであった〉

 わかりやすくまとめられているので、特に付け加えることもない。だが、あえて言うなら、「祭日考」が神の時間論だとすれば、「山宮考」は神の空間論だと言えるだろうか。季節ごとに山宮と里宮のあいだを神が移動し、その都度、山の神と田の神に姿を変えるというとらえ方がおもしろい。GHQがいかなる神道政策をとろうと、国男はこうした日本の固有信仰が消えることはないと信じていた。

 6月11日、国男は天皇と各宮家にご進講する栄にあずかった。ひと月ほど前に宮内省から話があったらしい。進講のテーマには、国語教育問題を選んだ。「明治宮殿は空襲で焼失したため、場所は宮内省の庁舎であったが、摂政時代の大正11年[1922]4月10日、東宮御所で国際連盟の話をして以来、実に24年ぶりの、昭和天皇への進講であった」と、柳田研究家の山下紘一郎は書いている。
 雑誌「展望」への国語教育論の連載が終わったばかりで、おそらく進講の内容も、その主張にそっていたとみてよいだろう。
「展望」3月号では、こんなふうに書いていた。

〈歴史にもないような大きな事件の連発によって、実は国民は今だいぶくたびれている。無事に苦しんだ常の時ならば、革新という言葉だけでも人の心は引き立ったであろうが、現在はむしろその反対に、ここはまずそっとしておいてくれと言いたそうな様子が各所に見られる。こういう時代における物の説き方は、早く実現させたいと思えば、なおさら注意し、また加減しなければならない。一国総体の改良などということは、これを企つれば議論が長びくでもあろうし、またそうまでする必要はない。しかも、お互いのわずかな力をふるっても、けっこうこの世のためになる仕事のできるのは、国語教育の方面よりほかに、いまはまずないと言ってよいのである。浪人風な気楽な態度と評せられるかは知らぬが、自分などはただ一人でも多く、国語をほんとうに利用しうる者を増やしておけば、もともとごく自然な望みなのだから、末は雪だるまのごとく大きくなって、やがて国民の精神生活は充実するものと信じている。いつ出るとも知れない文部省の訓令なんか待っているにも及ばぬと思っている〉

 もってまわったような言い方の背景には、GHQの検閲コードに引っかからないようにするための文体上の工夫がある。占領改革の行きすぎを批判する口吻もどこか感じられる。
 しかし、国男はこうした改革に振りまわされたり、便乗したりする前に、もう一度自分の胸に手を当てて、じっくり考えておくべきことがあるのではないかと思っていた。それがことばを守り、育てるということだった。
「国民総員の自由に思い、また言いうる国語」を教育し、広めていくことが、戦後の大きな課題だと考えていた。戦前のものの言えない時代をつくってしまったことへの反省があったことは言うまでもない。だが、同時にそれは、アメリカの占領政策にとらわれることなく、だれもがもっていることばの力を信じ、鍛えておこうというメッセージでもあった。いわば、一人ひとりが、ことばによって、くにを守るのである。
 国男がユニークなのは、国語教育といっても、話ことばの教育をいちばんに考えているところだった。それは本来、個々の家庭にそなわっていた技術なのに、いつのまにか、口まねをして教えてもらう学習が増えてきて、さらに時にはよくわかりもしない異国のことばを引いて悦にいる風潮さえ広がるようになった。「われわれ日本人はすんでのことに九官鳥になろうとしていたのである」と国男は断言して、はばからない。
 いわゆる口語体で話をすればすむという問題ではなかった。

〈……こういう文人[言文一致運動の推進者]たちの、まだ考えようとしなかったことは、文の相手の言、すなわち口言葉というものが、いかに粗末にまた投げやりに荒れすさぶにまかせてあるかということで、そのために人は少しく小賢しいことを言おうとすると、すぐに言葉を文章の中から借用して、自然な腹の底のものを発することができず、誰も彼も言うことがみなおそろいで、個人の表現というものに接することが、いよいよむつかしい〉

 腹の底にあるものを自由に表現できるような、子どものころからの話ことばの教育、さらには眼前のできごとが「なぜ、かくあるか」を考え抜く思考態度の育成──それが野の教育者として、国男が戦後の再教育に立ち向かう覚悟のありようだった。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0