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中野重治との対談(1) [柳田国男の昭和]

《連載139》
 雑誌「展望」の企画で、柳田国男と中野重治の対談が実現したのは、1946年(昭和21)11月14日のことである。この日、国男は枢密院の皇室関係法案委員会に出席し、帰宅後、成城の自宅でこの対談に臨んだ。
 11月3日には、天皇を国家の象徴とし、交戦権を放棄し、基本的人権を保障し、国会を国権の最高機関とする日本国憲法が公布されていた。この日の午前、天皇は貴族院本会議場の式典で憲法発布の勅語を読み上げた。そして、午後からは皇居前広場で催された祝賀都民大会に皇后とともに出席し、万歳を連呼して殺到する群衆に、あわやもみくちゃにされるところだった。
 日本国憲法の公布は、大日本帝国憲法(明治憲法)の規定にもとづいておこなわれた。つまり、天皇の勅命で議案を帝国議会に付し、ついで枢密院で諮詢し、それにもとづき天皇が改正を裁可し、上諭を付してこれを公布するという手続きどおりに事が進んだ。これにより自主的な憲法が継続されたことになる。だが、それがあくまでも形式を整える儀式にすぎなかったことは言うまでもない。背後には連合国軍総司令部(GHQ)の圧力が控えていた。
 7月に枢密顧問官に任命された国男は、途中から新憲法案の諮詢にかかわっている。帝国議会を通過した憲法改正案が10月29日に枢密院で承認されたときには、その本会議に出ていたはずである。ただし、このとき、天皇主権が維持されるべきだと考えていた枢密顧問官のひとり、美濃部達吉は欠席を貫いて、暗黙のうちに反対の意志を表明している。
 国男はまた、枢密院で開かれた10月22日の宮内省委員会、さらに中野との対談当日11月14日の皇室関係法案委員会にも出席し、皇室関係2法案、すなわち新皇室典範と皇室経済法案の条文化作業に加わっていた。憂国の念をいだきつつも、まさに戦後が誕生する公的な場に立ち会っていたのである。
 対談相手の中野重治はこのとき44歳。福井県生まれで、東大文学部を卒業、プロレタリア文学運動に参加した。1931年(昭和6)に日本共産党に入党、翌年逮捕され、2年後、転向を条件として出獄する。柳田の門人、大間知篤三とは東大新人会時代の友人であり、また同じく門人の橋浦泰雄とも日本無産者芸術連盟(ナップ)とのかかわりで、古くからの因縁があった。若いころ、国男の『遠野物語』を読み、獄中では『雪国の春』を愛読した。
「民間伝承の会」の会員になったのは1937年(昭和12)で、国男とはおそらくそのころ面識を得ている。国男が1939年(昭和14)に創元社から『国語の将来』を出版したとき、中野が「都新聞」に「わからぬことをわからぬと言い切る」著者(柳田のこと)を称賛する論評を掲載したことは以前に記したことがある。
 鶴見太郎によると、太平洋戦争が始まったあと、生活に困窮した中野は渋沢敬三の常民文化研究所への就職あっせんを国男に依頼し、国男もめずらしくそれを引き受けたという。この就職はけっきょく実現しなかったものの、これはふたりの親密性を示すひとつのエピソードとなっている。
 終戦直前の6月、中野は召集され、妹の鈴子あての「遺言状」に「柳田国男氏に深く感謝す」と書き記していた。物質上というより精神面のサポートに感謝したものといってよい。
 終戦後の1945年(昭和20)11月、中野は日本共産党に再入党する。翌年1月、野坂参三が中国の延安から帰国し、「愛される共産党」というキャッチフレーズを掲げ、国民から大歓迎を受けた。メーデーがあり、食糧メーデーがあり、次はゼネストだと調子づいている共産党に、中野は一抹の不安と違和感を覚えていた。国男との対談がおこなわれたのは、そんな時期である。
 対談はこんな調子で始まっている。

柳田 中野君には久しく会わないから、最近の心境を聞きたいと思っていたんですよ。
中野 いろいろお話を聞きたいんですが、まず[田山]花袋のことですが、あれはちょうど[島崎]藤村がフランスに行くとき、みんなで伊豆の方へ出かけた。先生もその時ご一緒で……。
柳田 私はいないんです。
中野 そうでしたか。あのころになると藤村という人と花袋という人との行き方が、世間の名声にもいくらかちがったように映ってきてると思うんですけれども、だいたい花袋という人は、仕事の上では大きな仕事をして、世間的に認められてきたころには、一方には[森]鴎外などの流れもあって、あまり学問的の仕事をしない行き方が、ああいう一派から少し軽く見られていた……
柳田 そうです。私は森さんのところへよく出入りしてたものですからね。私をとらえて田山の悪口を言って困ったことがあります。森さんだけじゃない、上田敏君とか、馬場孤蝶君とか、ああいう弱冠の文学者がみんないっしょになってね、田山ばかりでなく、小栗風葉とか、田舎から出てきて存分の仕事をしてる者を悪く言ってたんです。……

 国男が最近の世間の動きを知りたがっているのを百も承知で、むしろ中野は尊敬する国男の文学観を引き出そうとしている。そのとっかかりとなるのが、『蒲団』の作者として知られる田山花袋の思い出だった。そのため対談は、何やら懐かしさを喚起させる和気藹々(あいあい)としたものになった。


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