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「五勺の酒」と「私は共産党へ投票する」 [柳田国男の昭和]

《連載142》
 1946年(昭和21)の暮れには、連合国軍総司令部(GHQ)の出した「占領改革」プランがすっかり出そろっていた。その最大の眼目は11月3日に公布された新憲法にちがいなかったが、合わせて改正民法の骨格もまとまり、10月21日には第2次農地改革法も出されていた。旧体制の解体にめどがつき、いよいよ戦後体制が本格的にスタートしようとしていたのである。
 改正民法はかつての家社会をじわりじわり崩壊させていくための装置だった。これと同じくらい日本社会に一大変革をもたらしたのが、最終的にまとまった農地改革法である。
 これにより、在村地主の土地保有は、北海道を除き1町歩(約1ヘクタール)[農家が自立できる最低限の面積といってよい]に制限され、不在地主は土地を所有することができなくなった。すべての農地はいったん国が買い上げ、きわめて安い値段で小作農に売り渡される。近世以来つづいてきた地主制はなくなり、農地の9割が耕作農民によって所有されることになった。
 このころ日本の農業人口の割合は、総就業人口の5割を占めていた。それが1960年(昭和35)には27%、75年には11%、94年(平成6)にはついに5%、2001年には4%になるとは、ほとんどだれも予想できなかっただろう。
 それはともかく、いまは戦後体制がようやく緒についたところだった。日本人の多くは、敗戦のショックから気を取り戻して、新時代に向け、たくましく態勢を立て直そうとしていた。
 柳田国男にしても、中野重治にしても、それは同じである。しかし、戦後に立ち向かうといっても、たったひとりで何かを成し遂げることはできない。何か頼るものが必要だ。その点、中野が日本共産党によりどころを求めたのに対し、国男は民俗学研究所を拠点にして思索を深めていったといえるだろう。
 とはいえ、ふたりに共通するのは、組織に身も心もささげて満足するタイプではなかったことである。組織は信念を実現するための場ではあったが、信念をゆだねるための場ではなかった。
 1947年1月号の「展望」に中野重治は小説「五勺の酒」を発表した。ある中学の校長が、憲法特配の残り五勺(1合の半分)の酒を飲んで、友人の共産党員に長い手紙を書くという話だ。手紙にはいろいろなことが綴られているが、中野が取りあげている中心テーマは、戦後の天皇についての思いだった。
 こんな箇所がある。

〈それは千葉県行幸で学校だの農業会だのへ行く写真だった。そして、あいもかわらぬ口うつし問答だった。しかしそのとき、僕はあらためて、言葉はわるいかも知れぬがこの人を好きになった。少なくとも今まで以上好きになれる気になった〉

 これは食糧メーデーのときの「朕はタラフク食ってるぞ」というプラカードや「アカハタ」に掲載される「天皇は贋金(にせがね)づくりの王である」といった冷たい論評とは対極的な見方だった。
 次のような部分もある。

〈つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼らの最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙(じゅうりん)された個があっただろう〉

 そして、小説の主人公に託しながらも、中野はこう考えていた。

〈恥ずべき天皇制の頽廃(たいはい)から天皇を革命的に解放すること、そのことなしにどこに半封建制からの国民の革命的解放があるのだろう。そしてどうしてそれを『アカハタ』が書かぬのだろうか。道義、民族道徳樹立の問題をのけておいて、どこに国の再生があるだろうか〉

 天皇制という制度が、敬愛する天皇本人ばかりでなく、日本国民全体を呪縛しているところに、中野はこの国の道徳的退廃を感じていた。天皇制とは、古来の伝統というより、明治期、伊藤博文によってつくられた制度であり、GHQのもとで改変され、パッケージしなおされた制度にほかならなかった。
 共産党は天皇の人格を政治的に攻撃する煽動に走ることによって、国民から人気が得られるだろうと踏んでいた。中野はそういう卑劣さに嫌悪を覚えたのだ。問題は天皇制から天皇を革命的に解放することだ。新憲法はその課題をまだはたしていないと思っていた。
 4月23日付の「アカハタ」に「私は共産党へ投票する」という柳田国男の衝撃的な談話が掲載されている。新憲法の公布を受けて、4月20日に初の参議院選挙、25日に衆議院選挙がおこなわれるところだった。中野重治はこの参院選に全国区から立候補して、当選するのだが、国男の談話はその前に「アカハタ」記者のインタビューに応えたものだ。
 おそらく、あまり知られていない談話なので、長くなるのをいとわず、引用しておくことにしよう。

〈今の世の中は修羅道である。これをぜひ明るく、たのしいものにしなくてはならないが、そのいみで共産党も混乱をもっと建設的になおしてゆくようにしなければならない。私は中野重治氏を通じてしか共産党を知らないが、中野氏のごとき純粋な文化人は大切にして、真正面からどうどうと政治をやるべきで、小またすくいではいけない。共産党もまだまだ苦しまなくてはならないと思われる。
 私は農村問題を扱うにしても、日本古来の伝統を考え、例えば家督ということがこんど民法で廃止されることになっているが、これにかわるものを農民のためにつくらなくてはならぬ。すなわち農村では組合が必要であるし、都市とおなじく浮浪児の収容所、託児所、養老院などをつくり、それが心からたのしいあたたかいものにしなくてはならず、これは必ず国営の必要がある。とにかく政党政治の堕落はこれまで私有財産制度をあまり擁護しすぎたことにある。
 それから共産党の考えなくてはならぬのは宗教であるが、とくに地方にのこっている神道である。これも単純に西洋式にゴッド(神)と考えてはいけない。この点勉強しなくてはならないと思う〉

 見出しのつけ方を見ればよくわかるように、共産党は総選挙を直前に控えて、柳田国男を思いきり政治利用していることがわかる。国男はひと言も「私は共産党へ投票する」とは言っていない。むしろ、リベラルな民俗学者の立場から、共産党にいろいろ注文をつけたにすぎない。こんなところからも、中野が共産党を離党するひとつの原因となる、前衛党の政治主義と道義的退廃が見て取れるのである。

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