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平和のツールとしての翻訳──鈴木主税先生のこと(3) [人]

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金銭的にみれば、翻訳家の仕事は割に合わないことが多い。
出た本がミリオンセラーにでもなれば、話は別である。
しかし、最近はとりわけ本が売れないときている。
そのせいか、かつては印税が8パーセントで、しかも発行部数に応じて支払われていたのが、いまでは6パーセントで実売部数、さらには4パーセントという泣きたくなるような支払い条件がふつうになる始末。
こんな状態では、30冊翻訳して、ニンマリできるのは1冊ないし2冊といったところではないだろうか。
朝から晩まで机に向かって、ようやく4冊翻訳したのに、年収は200万といったことも、じゅうぶんに予想できる。
それでも、なぜ人は翻訳家になろうとするのだろうか。
鈴木主税先生は『職業としての翻訳』のなかで、こう書いておられる。

〈われわれが何か新しい仕事をしようとします。そのとき考えられるのは、その仕事によって手にしうる金銭的な報酬もさることながら、その仕事をしおおせたときの充足感や達成感などがきわめて重要だということです。つまり、われわれにとっての仕事の意味とは、そういう充足感や達成感を味わうこと、つまり生き甲斐を自分の肌身で感じることだと言ってもいいかと思います〉

翻訳家は、昔風にいえば職人とよく似ている。修業して腕をみがいて、ようやく満足のいく仕事ができるようになる。もうけはたかが知れている。それでも、さらに完璧な仕事をしたいと思う。そんな心象風景が心に浮かぶ。
鈴木先生のつくられた牧人舎は、翻訳家集団の道場でもあり、実際の仕事場でもあるのだが、ぼくはなぜかルネサンスの画家たちの工房を連想して、楽しい気分になる。
そう、自分の、いや自分たちの翻訳でなければ、このかたちにならなかった作品が世に出るという喜び、翻訳家の喜びというのは、そんなところにあるのではないだろうか。

翻訳家をつづけるには一種の覚悟が必要である。困苦に耐えなければいけないかもしれないし、仕事に追われて家庭をかえりみないことになるかもしれない。そんな不安や心配をふきとばす達観がどこかになければ、この商売はやっていけない。サラリーマンのように出勤時間に縛られず、定年もないのが、この仕事の長所でもあり短所でもあるのだが、何よりも自由なのが最高なのだと思う。
しかし、それよりも鈴木先生をみていて感じたのは、本への情熱、本への興味が半端ではなかったことである。鈴木先生の翻訳リストを眺めていると、その守備範囲が実に広かったのにいまさらながらに驚く。
アメリカの黒人解放運動、インディアン闘争史、ベトナム戦争、世界探検史、発明、ルネサンス、シベリア鉄道、実業家の話、スポーツ、映画、興亡史、戦争史、環境問題、湾岸戦争、ビジネス、中国、アメリカの政治、日本の行く末、原爆、国際関係、海の話、金融、ケネディ、チョムスキー、ビル・ゲイツ、ビンラディン、スターリン、ヒトラー、貧困、ロンドン……

ぼくは編集者をしていたとき、著者と読者とをつなぐことが自分の仕事だと思っていた。そして、最初の読者であることに何よりも編集者の機能があると考えていた。読者にわけのわからないものを届けるわけにはいかない。
翻訳家はもちろん著者と同じ存在なのだが、編集者と似た部分がある。出版社から持ちこまれた企画をみて、その翻訳を自分が担当すべきかどうかを判断しなくてはならないし、時には、自分が訳したいと思った本を出版社に持ちこむこともあるだろう。
もちろん、社の依頼(あるいは命令)で、本人がやりたくなくても引き受けざるをえないことがあるのも、編集者と翻訳家は似た面がある。
しかし、ともあれ、本人の強い意志がなければ仕事はつづかない。この意志というのは何も大和魂などということではなく、いわば好きということ、つまり興味なのである。
本が好きであること、英語(別に何語でもかまわないが)で書かれた本に興味があること、これが翻訳者(そして編集者)の第一条件なのだろう。技術と支払いはあとからついてくると考えてよい。
出版界、新聞界を含め、印刷メディアはいま不況にあえいでいる。出版社はいうまでもなく翻訳家にも、その影響がおよんでいる。インターネットの普及で、メディアのかたちも、商品の流通もすっかり変わってしまったのだ。
紙媒体が将来どうなるかはわからない。自動翻訳装置もできている。音と映像さえあれば、文字もいらなくなる時代がやってくるかもしれない。それでも人間の思考や想像力、そしてそれを表出する言語やイメージは残るだろう。
言語が将来、世界単一になる可能性はあるのだろうか。英語はいま世界共通語としての役割をはたしつつある。それがほかの言語をすべて駆逐し、世界単一語となる日がいつかくるのだろうか。それとも英語はあくまでも世界共通通貨のようなもので、その下にヴァナキュラーなというよりナショナルな言語がひしめくかたちが現出するのだろうか。
先のことはわからない。それでも、いまの時点で、翻訳が必要なことはいうまでもない。いくら出版界が不況だとはいえ、翻訳書がいっさい存在しない状況を想像すれば、逆に翻訳書の価値がわかるはずだ。
国際情勢、ビジネス、思想や哲学の翻訳書はぜったい必要だ。ミステリーだって小説だって、海外物がなければ、まことに味気ない。
情報鎖国は戦争のもと、へたをすれば国を滅ぼす原因となりかねない。
世界がいまも民族というカテゴリー、あるいは国という垣根で区切られているなかで、もし翻訳という地道な、まさに地をはうような作業がなければ、相手国の人が何を考えているかを知ることもできないからである。
その意味で、翻訳は平和構築のツールであり、翻訳家は平和をもたらす使者なのである。
昔、国立歴史民俗博物館館長をしておられた佐原真先生が、戦後日本の最大の価値は、戦争によって海外でだれ一人殺すことがなかったことだと言っておられたことを思いだす。
翻訳が平和にはたした影響は大きいし、これからも大きいのではないか。
鈴木先生に翻訳の将来について、もっと聞いてみたかった。
それが聞けなくなったのは、かえすがえす心残りである。

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