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民俗学研究所の発足 [柳田国男の昭和]

《連載146》
 成城の柳田国男邸内の書斎を拠点として民俗学研究所が発足したのは、1947年(昭和22)3月13日のことである。それが米軍による洋館接収を避けるための措置でもあったことは、前にも記した。
 数えで73歳となった国男が、この書斎を手放したくなかった気持ちはよくわかる。しかし、それと同時に、連合国軍総司令部(GHQ)の主導によって、着々と改革が進められている「戦後」に対し、民俗学がはたさねばならない役割があるという思いが、研究所発足にこめられていなかったはずはないのである。
 前年8月から復刊された雑誌「民間伝承」の1947年6月号に「民俗学研究所発足のことば」が掲載されている。これはおそらく国男が書いたものではなく、世話人のだれかが執筆して、国男の了解をとったうえで、雑誌に載せたものと思われるが、そこにも何やら新時代と向きあう決意のようなものがみなぎっている。
 その冒頭を引いてみよう。

〈すべてが新しくなろうとしている時代には学問も新しくなければなりません。これまでの学問は「象牙の塔」などという言葉であらわされていたように民衆の手のとどかないところにあることをもって、むしろ誇りとするような風潮さえありました。しかし、今は民衆自らが考え、自ら判断を行うべき時代であり、学問はその取捨判別の基礎を与えるという大きな使命をもっているのであります。ことに、これまでの国史といわれるものに、ただの1頁も跡をとどめなかった名もなき民の過去の姿を現在の民間伝承によって復原し、時のながれの中に正しく身を置くことによって、今日の生活に対する反省と、未来への判断のよりどころたらしめようとする民俗学という学問は、まず率先して国民の間に伍して行くべきものであることを痛感するものであります〉

 ここには柳田学のエッセンスのようなものが記されている。それは「象牙の塔」の学問ではなく、民衆のための学問であること。そして、それは「民衆自らが考え、自ら判断を行う」ことを促すための学問でなくてはならぬこと。さらに、その目的は「名もなき民の過去の姿を現在の民間伝承によって復原」すること。それによって、われわれが長い歴史のなかで、現在どのような場所に置かれているかを自覚し、未来への正しい選択をしていくということ。
 つまり、はっきり言ってしまえば、柳田学を継承し、守っていくことが民俗学研究所設立の目的だったのである。
 研究所の組織と運営は、まだ曖昧模糊としていた。
「民俗学研究所発足のことば」も、そのあたりはまだ漠としている。

〈ここには所長もなく、指導員と称するものもありません。ただこの学問に対して大いなる情熱をもつ研究者とこれを援助しようとする同情者との結合によって、内にはいまだ成長期にあるこの学問の確立をはかるとともに、外にはひろく国民のための学問としての信頼を得るために務めて行こうとするのであります〉

 所長をおかなかったのは、国男が所長になることを望まず、研究所の民主的運営を期待したからで、そうなると国男をさしおいて、だれかが所長になるわけにもいかなかった。所長はいなくても、柳田学の研究所のトップがだれなのかは言わずと知れていた。
「発足のことば」をみると、研究所の核となるのは「研究者」=研究員であって、それを支える「同情者」=維持員がいて、民俗学の研究と普及をめざしていたことがわかる。
 所長はおかない代わりに5名の常任委員と10名以内の代議員をおくことにした。代議員は月1回、代議員会を開き、さまざまな決定をおこなうことになっていた。国男は代議員のひとりとして、研究所の運営にかかわることになる。
 こうして陣容をしっかりと整えたのは、民俗学研究所が私的な機関ではなく、財団法人となることをめざしていたからで、実際、翌1948年4月に文部省は民俗学研究所を財団法人として認可することになる(その際、常任委員は理事という名称に変わった)。
 問題は財源だった。同人の拠金(会費)、出版物その他事業による収入、寄付金・補助金がおもな収入源として想定されたが、戦後の混乱期に、はたして研究所を維持していけるかどうかが大きな課題だった。文部省から補助金をもらうには、財団法人の認可を受けることが、絶対に必要だった。

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