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世界史の復習ーー『世界史の構造』を読む(3) [本]

『世界史の構造』をひきつづき読んでいる。世界史の復習だ。
いま第2部の世界=帝国の途中まで進んだところ。
マルクスの図式に沿って、近代以前のアジア的・古代的・中世的国家が論じられている。ここでいう古代的がギリシア・ローマ社会を指し、中世的がゲルマン社会を指すのはいうまでもない。アジア的を別として、マルクスもまた世界の中心を、ギリシア・ローマやゲルマンに求めていたわけである。
著者もこの図式を否定しない。しかし、マルクス主義においても、しばしば無視されていたアジア的国家に光をあて、ヨーロッパ中心史観とはいささか異なるアプローチを示している点に注目すべきだろう。
さらに国家論自体に関しても、マルクス主義の下部構造決定論を批判して、むしろ先に国家ありきを唱えているようにみえる。「イギリスにおいても、重商主義的な国家の主導性なしにマニュファクチャーも産業革命もありえなかった」と主張するのも、その表れだろう。
それでは社会全体を統括する権力をもつ国家は、どのようにして発生したのだろうか。
著者はこう書いている。

〈王権(国家)は共同体の内部からではなく、その外部から来る。だが、それは共同体の内部から来たかのように、つまり、共同体の延長としてあるかのようにみえなければならない〉

つまり、国家は共同体間で生じる抗争や征服の産物というわけだ。だが、国家が安定するためには、「征服した側が被征服者の服従に対して保護を与え、貢納に対して再分配するという『交換』のかたち」が生まれなくてはならないと著者はいう。
これは、まったくそのとおりである。
アジア的国家の特徴は、旧来の氏族的共同体を統合し、大規模な灌漑工事などによって、新たな農業共同体をつくりだすところにあった。共同体には貢納賦役の義務が課されるが、共同体内の自治はみとめられている。
それは専制国家にはちがいない。とはいえ、一定の理念(たとえば儒教や仏教)のもと、官僚制によって、すべての臣民を統治する広域国家の形態をとったことが特徴だった。
ギリシア・ローマ世界は、アジア的な世界国家より進んでいたわけではない。むしろその特徴は、西アジアの帝国の「亜周辺」にあって、「その文明の影響を強く受けながら、なお都市国家にとどまり専制国家への道を拒みつづけたこと」にあると著者は考えている。卓見である。
ギリシアの特徴は、海上による交易を中心とする多数のポリス(都市国家)が、ペルシア戦争のときを例外として、常に争っていたことである。商業は低くみられ、市民は労働を奴隷にまかせて、政治と軍役に明け暮れていた。僭主の登場を拒むところにギリシアのデモクラシーの本領がある。
いっぽうローマの特徴は、共和政と皇帝支配を統合したところにある。ローマは外部に対して常に征服戦争を仕掛けることによって世界帝国を築いた。多数の民族は「法」のもとに支配されていた。
ローマ帝国を継いだのは、構造的にみれば、ビザンチンであり、さらにイスラム帝国だった。
しかし、この時期、西ヨーロッパでは多くの自立都市が生まれ、帝国の亜周辺にあったゲルマン社会では封建制が生まれる。
封建制は、主君が家臣に封土を与え、家臣は主君に忠誠を誓う関係によって成り立つ。農民は領主から保護してもらう代わりに領主に貢納と賦役を提供する。
おもしろいのは、著者が中国の亜周辺といえる日本でも、こうした封建制が発生したとみていることである。
きょうはこのあたりで。


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