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『村のすがた』をめぐって [柳田国男の昭和]

《連載155》
だれもがふるさとをもっている。その心に描くふるさととは、どのようなものなのだろうか。おさないころのことを思いおこせば、そこにはどんな風景がひろがっているだろうか。
1948年(昭和23)7月に朝日新聞社から発行された柳田国男の『村のすがた』は、そのような思いで、つづられていた。
もともと「週刊朝日」に連載されたのは、44年6月から45年6月にかけてというから、まさに戦争末期にあたる。食料難の影響もあって、国男は途中気力をなくし、2カ月ほど休んだから、掲載は41回分となった。
1回が1200字程度で、野口義恵の挿し絵がつき、雑誌の巻頭を飾ったものだ。
「いくさの問題を取り上げぬように」というのが、編集者からの唯一の注文だったが、それは国男も望むところだった。かれがおそらく読者として思いえがいていたのは、徴集され、多くは戦場にある兵士たちである。

〈生まれも育ちもそれぞれに違ったたくさんの若い人たちが、国の端々から呼び集められて、あちらこちらで共同生活の日を送り、夜は一つの火のまわりに寄り合って、何か心を楽しくするような話の種はないものかと探し求めるという期間が随分と久しく続いたのであります〉

戦争のつらさ、苦しさをじゅうぶんに知りながらも、国男は戦後執筆された序文に、そう書いている。どんな状況におかれても、人は仲間を求め、思い出を共有するものだ。
国男によれば「週刊朝日」の連載は好評で、「ひじょうによく読まれ、またいつまでも覚えていてくれる人が多く、本にまとめて残しておくことを勧められることもたびたび」だったという。
だが、実際に戦後3年たって、この本を出すにあたっては、気がかりなことがあった。

〈いささか気になることが一つ。はたしてこれが現在の村の姿、日本の常の人の生活の、そっくりそのままだと言い切れるかどうか。いまは過ぎ去ったといわねばならぬ部分が、少しずつはもうできているのではないかということであります。わずか数年の前まではたしかにあった事実、うそと思う人は何べんでも見にいき、聴きにいくことの可能であったものが、あるいはもう片端は単なる記録と化しているのではなかろうかという点であります〉

それでも国男は「日本国中のどこかの土地に、こういった人間生活のひとつの様式が、少なくともここ十年ほどの前までは、たしかにあったというだけは請けあうことができるのです」と断言している。

世代が移り変わってもつづく、村の不動性、普遍性は、終戦直後、鶴岡(山形県)近辺の農村に疎開していた小説家、横光利一も感じていたことで、『夜の靴』という作品なかで、かれはこう書いている。

〈ここはすべてが鎌倉時代と変わっていない。風俗、習慣、制度、言語、建築、等々さえもーーただ変わっているのは、精米所と電灯があるくらいのことだろう〉

年末になって、東京に戻ることにした小説家は、翌朝、列車の出発が早いので、世話になった篤農の久左衛門と駅前の蕎麦屋で一泊し、ここで感謝と別れの盃を重ねることにする。
蕎麦屋の二階には、床の間に戦死した長男の写真が飾ってあった。世話になった久左衛門のいちばんの悲しみも、利発だった初孫を戦争でなくしたことだ。
酒もまわり、いい気持ちになったので、寝床をふたつつくってもらい、横になる。そのときの情景を、横光はこう書いている。

〈眠れないので私はときどき電気をつけて久左衛門の顔を覗(のぞ)いた。彼は寝息も立てずによく眠っている。見るたびにまっすぐに仰向いた正しい姿勢で、少し開いた口もとの微笑が「おれは働いた働いた」といっている。土台の骨が笑っている寝顔だ〉

小説家は、久左衛門のたくましく穏やかな寝顔を見ているうちに、かれもそのうち位牌になるのだろう、もう会うこともないだろうなと感じ、急に寂しさを覚える。それでもふたりの一瞬の出会いをのみこんで、村は変わることなくつづいていくにちがいなかった。
『夜の靴』は敗戦という未曾有の事態を迎えながら、土性骨の平常さを見失わぬ村の毎日を描いた名作である。国男は1948年の「読書新聞」元旦号に、この本を一読するよう勧めた。だが、作者の横光自身は、昨年暮れに満49歳で急死していたのである。

国男がみたのも、横光が感じたのと同じ、世間の波風をよそに、変わらぬ村の光景だった。
『村のすがた』は、いつに変わらぬ村の行事や祭、仕事、娯楽を一年の流れに沿って、抒情あふれる筆致で描く。
たとえば「秋晴れ」の項は、こんなふうにはじまる。

〈秋の田園風景は、そのころの天気都合によって、毎年の印象が一様ではないが、そういう中でも風やにわか雨が少なくて、仕事が予定どおりに手順よく運び、片づけものは片づき、干し物はみな乾き、少しも気が散らずに某日の用事に身を入れることができて、さていっぷくと四辺をながめるような日がつづけば、どんなにくたびれても秋ほど楽しい季節はないのである〉

天気のことからはじまって、毎日のようにからだを動かし、さて一服とまわりをながめると、そこには秋の風景がひろがっている。日本のふるさとのよさが、そこに凝縮されていた。
『村のすがた』は全編、そうした姿勢で描かれている。現実の貧しさも、そこではなつかしい光景のなかに溶解していくようだ。
だが、さすがに国男も戦時中に書かれたこの雑誌連載を、戦後、単行本として出版するにあたっては、このテーマが「ちょうどわれわれの歴史の最も大きく変化した、その境目にまたがっている」ことを意識しないわけにはいかなかった。
1948年にはベビーブームもあって、日本の人口は戦後直後の7200万から8000万に膨れあがろうとしていた。それでも、そのころは人口の約半分が農業にかかわっており、行政区分はともかく、日本人の多くが村をふるさとと感じていたことはまちがいない。
戦後の農地改革が、日本の村のしきたりを一変しようとしていた。それまでは水田の半分以上が小作によってつくられ、小作は収穫の半分を地主に物納するのが通例だった。それが戦後の農地解放で、かつての小作が、みずからの土地を手に入れたのである。
だが、その農地は1ヘクタールにもみたぬ零細さだった。生活は相変わらず貧しかった。多くの農家が兼業を選択するようになるのは、そのためである。
村の空洞化がはじまろうとしていたのだ。

国男にとって『村のすがた』は、戦中と戦後では、大きく位置づけを変えている。
この本が刊行される直前、国男は「朝日出版月報」に、次のような一文を寄せた。

〈日本を知るということは、日本人が互いに知ることを意味する。それもまるまるよそのことではなく、知ればこちらにも通うところがあり、しかもいままで気づかずにいたものが多いのだから、楽しい反省といってよいだろう。社会科の正しい教案を組み立てようとして、辛苦する人々に向かって私は進言する。ありふれた事物と法則とを、確実に知らしめることは大切であるけれども、これによって少年を退屈せしめることは罪悪である。彼らを快い知識の旅に進ませるには方法がある。今まで考えようとしなかった方角から、まず印象の絵の最も鮮明なものを供与する必要はないか。日本は東西古今の比較の、どこよりも楽しい国だということを、まず体験せしめることが急務ではないか。それを心ある人たちに考えてもらうことも、この本の一つの試みである〉

民俗学研究所の仕事は、社会科の教科書づくりに大きな比重をおこうとしていた。そして、この一文からも明らかなように、『村のすがた』は、戦後社会科の教案と考えられるようになっていたのである。





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