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農地改革とは何だったのか [柳田国男の昭和]

《連載156》
 少しくどいかもしれないが、ここで戦後の農地改革とは何であったかをもう一度ふり返っておきたい。
 詩人の中村稔は『私の昭和史 戦後篇』のなかで、日高晋の『日本経済のトポス』を引用しながら、こんなふうに書いている。

〈占領軍は「地主と財閥とを軍国主義を支えた勢力と捉えた」のだが、これには日本資本主義がまだ未成熟であるとか地主小作関係は封建的だという講座派と同様の事実誤認があり、農地改革はこういう講座派的誤解を前提とした、アメリカの進歩的知識人の優越感と使命感から出発した、という。「軍国主義勢力への懲罰とかその除去とかいう意図からすれば的はずれではあったが、資本主義の不安定要因の除去という点では大成功だった。しかも農地改革以後、それまで50年かかった面積当たり収穫量の増大分と同じだけをわずか10年あまりで達成している。この改革は農業の生産性上昇に役立ち、また戦中につくられた食料管理制度とあいまって農民の生活向上に大きく寄与したのである」と記している。日高の農地改革に対する評価に異論はないはずである〉

 連合国軍総司令部(GHQ)が、講座派の見解に影響を受け、日本の民主化改造に突っ走ったことがわかる。だが、それはともかく農地改革によって、農民の生活が向上したことを、経済学者の正村公宏も認めている。

〈地主はこの改革によって大きな打撃を受け、旧小作農家は大きな利益を得た。……戦前は、農村の生活水準は都市の生活水準に比較してさらに一段と低く、とくに、現金収入・現金支出は著しく少なかった。戦後はその格差が縮小した。政府の食糧管理政策も、都市住民への食糧の配給の維持と物価抑制という性格から農家所得安定化のための米価支持政策へと変質していった〉

 ここから、近代の地主・小作関係は、たとえ収穫物の物納を基本とするといっても、封建的性格をもつのではなく、あくまでも契約関係にもとづいており、そのため小作料をめぐっては紛争がたえなかったことが理解できる。地主は軍事体制に組みこまれていったかもしれないが、かならずしも軍国主義を推進していたわけではなかったのである。
 しかし、戦後、生産者である小作に農地が解放されることによって、すべての農民はみずからの生産物を売って生活する農業生産者となった。戦後、コメの収穫量が増大したのは、個々の農家に現金収入への道が開けたからであり、それを仲介する農業協同組合が誕生したのも1948年(昭和23)のことだった。
 食管制度に守られ、現金収入の道も開けて、これまでの地主はともかく、農業の将来は明るいようにみえた。ところが、ここに思わぬ問題が発生する。農という、それ自体がほんらい生活のスタイルだったなりわいが、隅から隅まで商品世界に組みこまれ、移ろいやすい市場と日々向きあうことを余儀なくされるようになったのである。その意味で農地改革は、昔ながらの村全体を資本主義経済の渦に巻きこむジャンプ台になったともいえるだろう。
 農業が割のあわない仕事とみなされるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
 社会学者の福武直(ふくたけ・ただし)はこう書いている。

〈農地改革は、土地の所有権を移動させ、多数の自作農を創設したけれども、農家の経営規模を大きくしたわけではない。日本農業のがんである過小農的零細経営は依然として残ったわけである。……しかも収量の増加によって農業の粗収入が多くなったとしても、肥料や農業の代金も増してきたし、機械の購入による出費も大きな負担となった。……この生活水準を、多くの農家は、農業所得だけでは維持することができなかった〉

 ひと昔前の言い方ではあるが、農家ごとに割り当てられた、あまりにも狭隘な農地を「日本農業のがん」と言い切るところがすごい。それは別として、この説明は、日本の農業がなぜ内部崩壊していったかをみごとに言いあらわしている。
 その後、日本経済は次第に高度経済成長時代に突入していく。そして経済の成長は農工間の所得格差を拡大し、農業人口の移動を促していくのだ。じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんによる、いわゆる「三ちゃん農業」が、農村で一般化するのは1960年代のことだ。
 さらに大きいのは需要側、つまり国民の食生活が次第に変化したのに、日本の農業がかならずしもこれに対応できたとはいえなかったことである。
 東畑精一はこう指摘する。

〈米食(ならびにその他のでんぷん食)はわが国民の食物の大宗であり、[1950年代半ばまでは]カロリー摂取分の7割5分を占めていた。……ところが高度成長期に入るとともに……米需要は全体として──人口増加をカヴァーしても──その絶対量を減少しはじめた。最近[1960年代後半]においては農民の米の消費量もまた減少しはじめた。かくて米は消費という点からみると、劣等財たる性格をもつようになった。これは明治百年にして、はじめて現れてきた重要な経済現象であるとなすべきであろう〉

 日本人が次第にコメを食わなくなってきた。こうして、かつてのコメの神話も、また崩れようとしていたのである。
 柳田国男とはあまり関係のないことを長々と書きつらねてきたのは、柳田民俗学が次第に時代遅れになっていくことを示すためではない。むしろ国男が守ろうとしていたものを明らかにするためである。
『村のすがた』の冒頭には、こんな一節がある。

〈わがくに多数の農村人にとって、稲の栽培ほど楽しみな生産作業はなかった。そうしてその背後には、古い信仰がまだ流れている。春は桜が咲き、種おろしの用意が整うと、苗代に注連(しめ)を張り、水口に斎串(いぐし)を立てて、そこに家々の田の神が迎えられる。田の神の恵みは、もっぱらその家の田産を豊かならしめるにあって、おそらくは遠い祖先の霊であろうと想像せられる。その苗代の緑がようよう濃くなって、いよいよこれを広い田に移す日がくると、そこにこのワサウエという第一次の感謝祭は営まれたのである。それが感謝であって祈願でなかったことは、この日の歌や賑わいから、または用意せられる飲食のかずかずからでもわかる〉

 この一節は記録というより、祈りに似ているのではないだろうか。それは村の生活を忘れるなという警告だったようにも思える。

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