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『朱子伝』(三浦國雄著)をめぐって [本]

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 哲学というと、われわれはふつうプラトンからはじまってアリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、フーコーなどにいたる西洋哲学を思い浮かべます。哲学ということば自体が、明治期に移入されたフィロソフィーの翻訳語なのだから、それはそれでいたしかたないのかもしれませんが、ちょっとそれではさびしいような気がしませんか。
 明治以降の近代化によって、日本では江戸時代までつちかわれてきた儒教や仏教、国学などの伝統が、一挙に失われてしまったかにみえます。しかし、そうではないことは、われわれの言動をふりかえってみれば、すぐにわかることです。家庭や学校、職場でも、はたまたさまざまな儀礼や葬式においても、どこか東洋的というか日本的というか、古い伝統的なスタイルが根強く残っているのではないでしょうか。
 たとえば大臣の親任式というのでしょうか、新内閣の発足にあたって、天皇陛下が総理大臣に任命書みたいなものを手渡すシーンがよくテレビなどで出てきますね。そのとき総理大臣は天皇陛下の読み上げた任命書をうやうやしく受け取ります。
 総理大臣がモーニング姿というのは、ひと昔前の西洋流ですが、信任状の受け取り方はいかにも日本風というより儒教風にみえませんか。総理大臣は天皇陛下と握手したり、ましてハグしたりはぜったいしません。そんな天皇陛下や総理大臣がでてくれば、おもしろいとは思いますが、いまのところ総理大臣が陛下に対して、そんな行動に出れば、それこそ大問題になるでしょう。
 例によって、話がとんでもない方向へ走りつつありますが、きょうのテーマは儒教について考えてみようということで、とりわけ朱子(1130-1200)についてです。
 日本の江戸幕府は中国や朝鮮の王朝とちがって、朱子学を国教とこそしませんでしたが、朱子学を指導理念と考えていました。その点、近世の日本は「儒教国家」ではなく、あくまでも将軍の治める「武士国家」でした。それはともかくとして、近世における朱子の影響力は、東アジア圏においては絶大だったといってまちがいありません。
 朱子は南宋(1127-1279)の人で、いまの福建省あたりで暮らしていました。日本でいえば、平安時代が終わって鎌倉時代がはじまるころの人ですね。そのころ日本も激動期でしたが、中国はもっと激動期で、宋という国は、女真族の金によって北部から中部まで奪われて南に移るものの、最終的にはモンゴルによって滅ぼされてしまうことになります。
 そんな激動と危機の時代に、朱子は儒教を体系化するという大仕事をなしとげるわけです。
「四書五経」という言い方があります。四書は『論語』『孟子』『大学』『中庸』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を指します。朱子は儒教の体系をこの四書五経によって代表させ、とりわけ四書に評注を加えました。宇宙のことわりを表す「太極図説」をまとめたことも大きな業績です。歴史書の『資治通鑑』を整理・編集したこともよく知られています。さらに共著のエッセイとして『近思録』、弟子のまとめた発言集として『朱子語類』などもあります。
 英語では儒教をConfucianismというのに対して、朱子学のことをNeo-Confucianismなどといいます。アジアのネオコンですね。冗談はともかく、英語圏の評価をみても、朱子はなかなかの豪傑だったことがわかります。
 三浦國雄の『朱子伝』は、そんな朱子の生涯をとりあげた名作です。朱子というと、われわれはどこまでも堅苦しい人物を想像しがちですが、この伝記ではどちらかというと生身の型破りの人物が、愛着をもって、ほほえましく描かれています。ぼくも、この本で朱子が好きになりました。
 朱子は19歳のときに、330人中278番という、あまりぱっとしない成績で科挙に合格し、南宋の官僚になります。そして20歳から70歳まで50年にわたって官僚を務め、国から給料をもらうのですが、その間、役人(たいていが県知事)として仕事をしたのが、わずか9年と40日ほど。
 それ以外は「祠禄(しろく)の官」といって、出仕せずに、いわば国から捨て扶持をもらって、家で思索に明け暮れていました。といっても孤居していたわけではなく、2000人とも3000人ともいわれる門人やファンが出入りしていたわけです(しかし、基本的には貧乏でした)。
 役所があまり好きでなかったのは、会社嫌いのぼくと同じです。ちがうのはほかの部分。朱子はものすごい勉強家でした。かれは何のために学ぶのかと問われて、おのれをつくるためだと答えています。
 これは、ぼくにはちょっと意外でした。朱子学といえば世を治めるためとか、出世するためというイメージが強かったのですが、著者は「朱子の一生はこの『聖人』というイデアへの終りのない旅であったと言える」と書いています。儒学が「教養」ではなく「人格」の形成をめざしていたことがわかりますね。
 役所がきらいだったとはいえ、朱子が無能だったかというと、そうではなく、県知事のような仕事をしたときには、人材の発掘や教育を含めて、みごとな業績を残しています。ただし、時にあまりに厳格であったために、権勢家と対立し、それがのちに思想的な弾圧を招く遠因になります。
 しかし、そんな感情的で一時的な弾圧を乗り越えて朱子学が後世まで生き残るのは、その学問的体系がみごとに構築されていたからでしょう。
 三浦國雄の評伝がすばらしいのは、運動としての朱子学の成立過程が当時の状況とともに記されているためですが、それにもまして、朱子の人間像がまるでそこに浮かびあがるように生き生きと描かれているためです。傑作伝記と呼べるゆえんでしょう。
 せっかちで、かんしゃく持ちで、粘着質というのは、朱子のいやな性格ですが、精神的に強靱で、ユーモアもあって、人好き、話し好きというのは、そのあたりのだれかとも似ています。
 晩年、病気がちだった朱子は、弟子に「自分は聖人から伝えられてきた道統を正しく継承できなかった」「ふがいない自分に師事したために、諸君の一生を誤らせてしまった」と嘆いていたともいいます。そんなぼやきも人間味があって、おもしろいですね。
 本書がえがいているのは、聖人朱子の虚像ではなく、聖人に近づこうとして聖人になれなかった人間朱子の実像といえるでしょう。
 おすすめの1冊です。

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