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『海上の道』前夜 [柳田国男の昭和]

《連載第177回》
『柳田国男伝』によると、民俗学研究所では1950年度から、大藤時彦ら20人の研究員を投入して、3年がかりの離島調査が始まっていた。最初に選ばれた島は鹿児島県の甑島(こしきじま)や種子島など20カ所だった。
 さらに同じ年、九学会連合による対馬調査もはじまる。九学会連合とは、人類学会、地理学会、宗教学会など九つの学会の連合体を指し、そのなかのひとつに国男が会長をつとめる日本民俗学会も加わっていた。民俗学会の会員は、たいていが民俗学研究所の研究員でもあり、この対馬調査に国男は和歌森太郎や直江広治らを派遣している。2年間にわたる調査は、最終的に『対馬の自然と文化』という大冊となって上梓されることになる。
 もうひとつ、この年、民俗学研究所の仕事として特筆すべきなのが『民俗学辞典』の編纂だった。これまで民俗学が切り開いてきた研究の成果を1冊の辞典としてまとめることは、いつかだれかがやらねばならない仕事だった。
 辞典の編纂にあたっては、国男が監修に当たり、大藤時彦、大間知篤三、直江広治、堀一郎、和歌森太郎が編集委員となり、40人が執筆にかかわった。複雑な編集作業であるにもかかわらず、1年足らずで本が完成し、東京堂から刊行されたのは、出版に向けて、よほどの情熱と使命感が関係者全員を奮い立たせていたのだろう。
 1951年(昭和26)1月に発売されたこの本は、民俗学の本としてはめずらしく毎月重版を重ね、この1年だけで1万2000部以上の販売部数に達した。
 その「序」に国男はこう書いていた。

〈日本民俗学が、常に証明し得られる事実、最も安全なる知識の供出をもって限度とし、結論を後から来る人に委ねようとしているのは、もとより学問の性質にもよることであるが、また一方には古来東方人の癖として、とかく先輩の判断を、ただちに動かすべからざる事実と感じて、おのれを空しゅうして追随する弊に堪えないからであった。各人に自由な判断力を養わしめない限り、一般選挙の効果は挙げることはできない。そうして確実にして、また豊富なる知識を与えていくよりほかに、その判断を錬磨する機会は、現在はまだ考え出されていないのである。社会科教育の任務は、そのために非常に重いのだと思う。……国の次代を明朗ならしめることを、その収穫の一つに期している学問は、すなわち発言権を認められてよいと思う〉

 例によって独特の癖のある文体で、一読、真意がつかみがたいが、言わんとすることは何となくわかる。たわいない怪異やささいな風習、日常の衣食住を対象とする民俗学は、事実の集積からなる学であって、その事実もこれで終わりというものではなく、いくらでも広がりをもっている、と国男はいいたいのだ。そして、だいじなのは、そうした事実をもとに、公民としての個人が付和雷同することなく、自由な判断力を養成することであって、戦後の社会科教育もその点に目標が置かれている。たとえ大日本帝国が滅んだとしても、そうした自由な判断力をもつ日本人が育てば、国の将来は明るい。民俗学は「国の次代を明朗ならしめること」を目標にしている。そう国男は宣言していた。
 だが、国男はみずからが切り開いてきた民俗学の成果に満足していたわけではない。そのころのかれの様子を『柳田国男伝』は次のようにとらえている。

〈当時の柳田は、傍目(はため)には異常と思えるほど沖縄に執着し、日本人の出自経路を想定した『海上の道』の準備段階に入っていた。しかし、沖縄には当時渡航制限などがあり、調査は困難な状況にあった。その代用が「離島調査」とはいえないにしても、南島(沖縄)から滔々(とうとう)と流れてくる黒潮に洗われる島々の調査は、柳田の沖縄への思いを充たすのには十分であったであろう〉

 たしかに沖縄へ思いを寄せる国男が、その代償として求めたのが離島調査だったとは思えない。だが、そう思わせても不思議ではないくらい、国男は、この時期、「異常と思えるほど」沖縄に執着していたのだ。大正末年に沖縄を訪れた記憶や、亡き伊波普猷への思い、折口信夫のマレビト論への不満、それに江上波夫の騎馬民族説への反発などがないまぜになって、いまアメリカの軍事支配下に置かれている、海のかなた沖縄を、国男は日本人の出自の地として想起しようとしていた。
 その思考の痕跡は、早くからたどることができる。
 たとえば1949年(昭和24)6月に山梨郷土研究会から発行された雑誌「郷土研究」に、国男は「コヤスガイのこと」と題するエッセイを寄せている。貝塚茂樹はその著『中国古代史学の発展』に、古代中国ではタカラガイ(宝貝)あるいはコヤスガイ(子安貝)が貨幣として珍重されていたと論じていた。そのことを紹介しながら、国男は大正の終わりごろ、沖縄の尚男爵[旧琉球国王家]にコヤスガイのコレクションを見せてもらい、その美しさに驚嘆したという思い出を記している。
 だが、日本ではタカラガイないしコヤスガイが貨幣として用いられた形跡はなかった。『竹取物語』に奇譚として「つばくろのコヤスガイ」が登場するものの、コヤスガイが信仰の対象になった様子も見られなかった。
 それにもかかわらず、国男は「日本の古い民族はおおむね南種といえる」と断言し、こう言いつのっている。

〈日本人と沖縄人とがイトコの間柄であるとすれば、朝鮮人はマタイトコくらいになり、中国人とはほとんど共通点はない。このことは日本人と関係のあったと思われるいわゆる東夷の種族が次第に中原に進出することによって、東夷本来の性格を失って、中原の文化の中に消えてしまったことに根源があるのではないかと想像している。殷はもと東海岸の種族でありながら宝貝を尊重するようになり、東の海のことを忘れはてて、遂に故郷の東夷を征伐するに及んで亡んだ。
 日本人の故郷がもし南種であったとすると、中部支那の東海岸でタカラガイのたくさんあった民族ではなかったろうか。私どもにとって、中国のなかに日本人のマタイトコを探すために実はこのコヤスガイが手掛かりとなるのである〉

 ここで国男は大胆にも、日本人の起源を中国中部海岸地方に拠点を置いた海洋民族(のちに「殷」をつくる民族もその一族だったとされる)に求めていたことがわかる。それは漢民族とは別の民族であり、江上波夫が想定するようなアジア東北部の扶余族とも異なる。この想像力の飛翔が、妖しい光を放つコヤスガイを、大正末期に自分の目で見たところから発していることに注目しておこう。
 沖縄人は東夷とされた海洋民族の末裔とみられている。そして日本人は沖縄人のイトコであり、朝鮮人のマタイトコだと位置づけられている。あまりにも空想的な仮説とはいえ、国男の頭にひらめいたこうした関係性は実に興味深い。
 翌年3月26日にも、国男は成城の民俗学研究所で開かれた日本民俗学会の「研究会」で、「島の鼠」と題して、ネズミが海を渡る話をしている。
 雑誌「民間伝承」に掲載された記事によると、このとき国男は、久米島に穀物に害を加えるネズミをニライカナイ(太陽の神の地)に返してくださいと祈る儀式があるということを紹介している。ネズミはもともと島にいたわけではなく、渡来したものと考えられていた。そして海を必死に渡る鼠は、また人間集団の移動を連想させた。
 国男は熱っぽくこう話している。

〈その島の鼠と同じように、島の民族の繁栄ということが考えられるのではないか。島の民族はどこかに必ず祖先があって、いつかその島に渡来してきたのである。……我々の祖先も、島の鼠と同じように、恐らく内部の圧迫などにたえきれなくなって、その結果必死の航海により移住してきたにちがいない。しかし鼠と人間との最も大きな相違は記憶力で、後世その歴史が時に曲解されてもやむをえないと思う。高天原の物語は、わずかな人数の者が第二次の移住をしてきた形で、そこで天孫民族と出雲民族との対立が生じたといわれるが、山の上に降りてきたということはありえないことである。信じがたいことを半分だけ信じようということが、これまで行われてきたが、それは無理である。しかしすべてのものが空想であるともいえない。自然にまかせていれば、最初の渡来者の記憶は薄れてしまうのが普通である〉

 ここでも民族の渡来が念頭に置かれていた。久米島がひとつの島だとすれば、日本列島全体が島のかたまりだと考えてよい。そして神話が語るように人が天から山に降りてきたのでないとすれば、民族はかならず海を渡ってやってくるしかない。国男はなぜか南島に日本人の渡来の初源をとらえた。天孫降臨の神話も空想の産物と決めつけるわけにはいかず、そこに事実の痕跡が見られないわけではない。だが、国男にとって、それは「第二次の移住」を物語るものであって、初源の地は南島にほかならなかった。
 研究会をしめくくるにあたって、国男はまた次のように話している。

〈この方面における我々の研究が進むならば、日本と沖縄とが結びつき、さらにいくつかの島の状態がわかってくるであろうし、さらに人種移動の問題の解釈にも及んでくると思う。人類学は、体質や言語のほかに、民族のなかに残っている過去の記憶をも目安にしなければならない。エスノロジーのこれまでの考え方を改める方向に進んでゆくのが、日本民俗学のすすむべき道である。私は沖縄にひとつの学問を起こし、将来、民族の過去のことを、もう少し研究してもらいたいと望んでいる〉

 どちらかというと北方起源に重点を置く鳥居龍蔵以来のエスノロジー(民族学)への対抗意識が濃厚だった。しかし、それは日本民俗学の立場からする異論にとどまらなかった。国男はふたつのミンゾク学が統合されて、人類学へと開かれていくことを望んでいた。そのカギとなるのが沖縄だった。
 こうして『海上の道』が引かれようとしていたのである。

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