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大原幽学展を見る [人]

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先日、千葉中央博物館で大原幽学展を見ることができました。
残念ながら展示は1月16日で終わってしまいましたが、いまでも旭市長部(ながべ)にある大原幽学記念館に行けば、博物館で展示された資料を全部見ることができます。
旭市にある記念館の周囲には、いまも幽学の旧宅(ただし屋根だけは昔の茅葺きから銅板に改修されています)や、その教導所・改心楼の跡地、切腹した墓所、耕地の地割りが残されているといいますから、大原幽学について詳しく知りたい人は、できれば旭市の記念館を訪れるべきでしょう。
大原幽学(1797-1858)は、幕末の農村改革指導者のひとりです。出自は明らかではありません。みずからは尾張藩の家老大道寺家の次男として生まれたと称していましたが、これはおそらくはったりで、実際はその父親も各地を転々とする浪人だったようです。
幽学は若くして両親を亡くし、その後各地を放浪します。四国、播州、大坂、高野山、京都などを歴訪し、信州で村人相手に「中庸」などを独自の解釈で教えはじめ、35歳ごろ安房・上総にはいり、40歳近くになってからようやく銚子の西、九十九里北東部に近い長部村に腰を落ち着けます。
性学と名づけられた幽学の学問は、いわば百姓が守るべき処世術というべきもので、儒教や仏教のむずかしい学問体系ではありません。長い遊歴のなかからつかみとられた独学です。それは日々の実践の教えであり、何よりも村人が共に和して、田畑を改良し、家を守っていく知恵を含んでいました。
長部の村人は、幽学のために改心楼という教導所まで設けたのですから、よほどかれを敬服していたのでしょう。それがかえって、幕府の警察機関である八州廻りの疑惑を招きます。幕府は宗教のように人をひきつけてやまぬ性学を取り締まるため、やくざを使って騒動をしかけ、氏素性のはっきりしない幽学の身辺をあばこうとします。
審理のほとんどおこなわれない長い期間を含めて、ほぼ5年半におよぶ裁判の結果は、わずか100日の押し込み(謹慎)というあっけないものでした。幽学の側に過誤などあろうはずもなかったのです。しかし、その間に、改心楼は幕府の命令により取り壊されていました。
江戸時代の武士がほとんど官僚化するなかで、幽学という人は、浪人という身分がようやく認められるような存在にすぎませんでした。しかし、かれこそ村人の教導に尽くす、ほんらいの武士のなかの武士だったといえるのではないでしょうか。
佐藤雅美の『吾、器に過ぎたるか』(2003、講談社[文庫本のタイトルは『お白洲無情』]は、地味な本ですが、そんな「武士として生き、武士としての誇りを持ちつづけた」幽学の姿を記録にもとづいて丁寧に描いています。これを読むと、切腹は幽学にとって武士の証明だったのかもしれません。
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江戸時代というのは身分制度の厳しい苛烈な時代ですが、そんななかから時々こういう珠玉のような人物が現れています。そのことを今回の博物館の展示であらためて知ることができました。

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