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宝貝のこと(2) [柳田国男の昭和]

《連載181回》
 宝貝が貴重であったころ、それが現在の硬貨と同じような感覚で用いられていたとは考えにくい。のちにアフリカなどで宝貝は小額の地域通貨として通用したこともある。しかし、西に玉を求め、東に貝を探し、祭器としての青銅器を生みだした殷のように活発な神がかりの国で、宝貝が庶民のあいだで気軽に流通する貨幣だったとは考えにくい。それは何よりも王室の財貨であり、臣民に与える褒美として存在したのではなかろうか。
 古代において貨幣とはそもそも何だったのかを含めて、秦の始皇帝によって流通を廃止されるまでのコヤスガイの役割については、まだまだ検証されなければならないことが数多く残っている。
 だが、ここでは何はともあれ、国男自身の宝貝に対する思いをふりかえることにしよう。
 国男は1921年(大正10)に沖縄を訪れたときの思い出を「宝貝のこと」のなかで、こう書き記している。

〈私は今から30年の昔、ひとたび沖縄を訪れた際に、故尚順男爵の宝貝の蒐集(しゅうしゅう)を見せてもらったことがある。首里からすぐ近い別荘の前の海で、手ずから掬(すく)いとられたものばかりというのに、名も付けきれないほどの何百という種類で、形よりも色と斑紋の変化がめざましく、今でもあの驚きを忘れることができない。沖縄が世界にまれなる宝貝の豊産地であったことは、これただ一つの材料からでも証明し得られるかと思うほどの整理ぶりだったが、あれは結局どうなってしまったろうか。尚男一家の悲惨なる遭難始末とともに、まだ私たちのところへは詳らかに伝わってこない〉

 尚順(1873-1945)は最後の琉球国王の4男、男爵で貴族院議員でもあり、琉球新報や沖縄銀行の創設者としても知られていた。国男は貴族院の書記官長をしていたから尚男爵とは前から知り合いだったのだろう。そして30年前、沖縄を初めて訪れたときに、那覇にある尚邸で、男爵がみずから拾い集めた宝貝のコレクションを見せてもらい感激したのである。
 ところが、1945年(昭和20)6月17日、米軍が首里城を占拠したあと、おそらく屋敷を爆撃されて、尚順は家族もろとも死亡する。国男が「尚男一家の悲惨なる遭難始末」と記すのは、そのことである。
 亡き盟友、伊波普猷の意思を継いだ沖縄文化協会の雑誌「文化沖縄」に国男が「宝貝のこと」という一文を寄せた背景には、そんな悲惨な沖縄戦への哀悼の思いが託されている。
 この一文を記したあと、しかし、少し気を取り直して、国男は宝貝がもともと何と呼ばれていたのかを探ろうとしている。
 現在、沖縄ではそれをシビあるいはスビ、ツビと呼んでいる。宝貝はその特異な形状から、安産の守りとして珍重され、子安貝と呼ばれることもあった。ソソ貝、べべ貝という俗称は、ちといたずら心が過ぎたようである。
 国男自身はいまのシビ・スビ・ツビ以前の呼び方があったにちがいなく、「南方諸島において、最初この美しい宝の貝を緒に貫いて首にかけていたのは、君々すなわち厳粛なる宗教女性であった」と信じていた。
 さらに国男は、北方からはいってきたと思われる曲玉文化以前に、宝貝文化が存在したのではないか、と大胆な推測をくり広げる。
 それはちょっと苦しい論述になる。だが、実証よりも想像がほとばしった。

〈問題は結局するところ、いわゆる曲玉の芸術文化が、外から入ってきたか、内にあるものが発展してきたか。仮にあの材料の石類がみな手近にあったとしても、あれを斫(はつ)り研(と)ぎ磨(す)って穴をあける技術が備わるまで、首に玉を貫いて掛ける風習が、始まらずに待っていたか。それとも最初には海から採り上げた色々の貝の中の最も鮮麗なるものを選び用いる趣味がすでに普及していて、それが南の島々で見るように、特に得がたい石類にあこがれる傾向をうながしたか、親しく南北洋上の島々について、今後は日本人が比較参照すべき問題であろうと思う。珠玉をまとう好みは、何だか近ごろは毛皮の民族から学ぶようにも感じられるが、最初はどう考えても裸の国、暖かい海のほとりの社会に始まるべきものだった〉

 ここで国男は西洋人のもちこんだネックレス文化を皮肉りながら、早くも日本人の南方起源説に思いを馳せている。
「宝貝のこと」は2年後に「海上の道」でくり広げられる大胆な仮説を先取りする役割を果たしていたのである。

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