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栄光と研鑽 [柳田国男の昭和]

《連載182回》
 1950年(昭和25)から53年(昭和28)にかけて、柳田国男とその民俗学研究所は、高揚期を迎えていたといってもよい。しかし、その時期は長くつづかなかった。それはおそらく、国男がすでに高齢だったことに加えて、戦後の復興により日本社会が変貌を遂げるなかで、民俗学がどこか時代に合わなくなってきたことが関係しているかもしれない。
 とはいえ、1951年にかぎっても、国男自身と民俗学研究所の好調ぶりはきわだっている。
 以前述べたことと重なるかもしれないが、『柳田国男伝』から、その節目となるいくつかをひろっておくことにしよう。
 民俗学研究所では、昨年以来の離島調査がつづいている。またかなりのメンバーが研究所の関係者と重なる日本民俗学会が、9学会連合に加わって、対馬の共同調査をおこなっていた。
 1951年1月には、この手の学術書としては、めずらしく版を重ねることになる『民俗学辞典』が東京堂から発刊されている。
 また国男が監修し、東京書籍から刊行された国語教科書『新しい国語(あたらしいこくご)』が、小学校と中学校の教育現場で、広く活用されるようになっていた。
 難航していたのは社会科の教科書づくりである。成城学園では国男の提言にもとづいて『社会科単元と内容』というガリ版のテキストがつくられ、それにもとづいて実験事業がおこなわれていたが、その授業は成城学園だけではなく川崎市の西生田小学校にも広がっていった。
 この成城学園のテキストをベースにして、民俗学研究所の所員が、実業之日本社からの発刊が決まった社会科教科書づくりに本腰をいれるのは1951年からである。教科書出版に経験の浅い実業之日本社は、国男とのこれまでのいきさつから、しぶしぶこの企画を引き受けたという。
『柳田国男伝』には、その編纂の様子が、次のように記されている。

〈実業之日本社がしぶしぶ承諾すると、柳田邸の2階で教科書づくりが始められた。編纂は、民俗学研究所のスタッフと成城学園初等科の教師が中心になり、『社会科単元と内容』をベースに、学習の資料や教材が集められていった。しかし、容易に思われた編集にも困難が多く、編集会議は長びくのが常で、柳田邸の2階はタバコの煙が充満し、吸い殻は散乱、ついに孝夫人から苦情が出るようなありさまであった。そこで会場は、水道橋の旅館日昇館に移されることになった〉

 社会科教科書が突貫工事で進められたことがわかる。1階を民俗学研究所に明け渡し、2階で暮らす柳田夫妻にも、相当負担がかかったと思われる。編集作業は遅くまでにぎやかにつづけられた。熱い時代だったのである。
 実際に社会科教科書が完成するのは2年後の1953年5月、それから文部省の検定を経て、小学校で用いられるのは翌54年(昭和29年)度からとなった。中学校用の教科書は、できあがったものの検定に合格しなかった。これらの教科書がどういう内容のものだったかは、あらためて紹介することにしよう。
 国男自身は、直接、社会科教科書づくりに巻きこまれることがなかったとはいえ、それでも全体の骨格づくりにはかかわっていた。定例の民俗学研究所の談話会や日本民俗学会の研究会もつづいていたから、その身辺はけっして安閑とはしていなかった。
 ほかに南島研究会もある。加えて国男は、この年7月に発足した新嘗(にいなめ)研究会にも加わっている。稲作史研究会がはじまるのは、その翌年6月のことである。
 新嘗研究会は、三笠宮崇仁(たかひと)と歴史学者の阿部行蔵(都立大学教授)が提唱し、その趣旨に賛同した松平斉光(なりみつ)が国男に協力を求めて、実現する運びとなった。
 阿部行蔵と松平斉光は、ともに都立大学教授。阿部はマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も翻訳し、のちに革新派の立川市長になっている。松平は政治学者で『祭』などの著書もある。
 その松平が、新嘗研究会発足のころの様子を次のように回想している。

〈もちろん先生も非常に喜ばれた。多年の研究できわめ得なかった皇室の祭儀を、この際解決できると顔をかがやかされたことはもちろんであるが、それよりもまず、宮様がこうした方法で日本本来の姿を掘り起こされることを無上に喜ばれたのである。……
 この新嘗研究の試みはやがて「にいなめ研究会」となって実現し、毎月1回ずつ研究発表会をつづけてきたのである。第1回には「稲の産屋」と題し、新嘗行事に関する包括的研究を発表された。あの高齢で3時間にもわたり、原稿ももたずに話しつづけられた記憶力にはなみいる人々が驚嘆したものである〉

 新嘗研究会での成果は、その後『海上の道』に収められた論考に反映されていくことになる。
 そして、この年喜寿を迎えた国男にはもうひとつうれしい知らせが舞いこんだ。第10回文化勲章を受章したのである。
 このときの受章者はほかに歌人の斎藤茂吉、歌舞伎の中村吉右衛門、作家の武者小路実篤だった。「伝記」にも、国男が「内心おおいに喜んだのはまちがいあるまい」と書かれている。

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