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民俗学の将来 [柳田国男の昭和]

《連載199回》
 石田英一郎は「あえて[柳田]先生の意図にそむいても」民俗学を「広義の人類学」と位置づけるべきだと提唱した。
 しかし、それはほんとうに国男の意図にそむいていたのだろうか。民俗学をどうにかしなければいけないと言いだしたのは国男のほうである。1949年(昭和24)4月におこなわれた折口信夫との対談をみても、国男が「一国民俗学」の終焉を宣言し、民俗学と民族学を統合した「人類学」の創成をはるかに展望していたことはあきらかである。
 そのときの対談では「日本の歴史を考えるときに、アントロポス[人類]を考えなかったということこそ最近いろいろな不幸な情勢を生んだもとだ」とも発言していた。だから、石田の勘違いするように、経世の学としての国史あるいは日本史の一部に民俗学を割りこませることだけを、国男がめざしていたわけではけっしてない。
 日本の民衆生活史が日本という国を抜きに語れないことはたしかだった。しかし、その国は単独に存在するわけではなく、世界の国ぐにとの関係においてしか成り立たない。その関係の根底に「人類」という共通項があることはいうまでもなかった。
 さらにつけ加えれば、国男は『海上の道』に向けての試みにおいて、沖縄を焦点とする比較民俗学の領域へ、みずから踏みこんでもいたのである。沖縄は民俗学を広義の人類学に結びつける試金石となっていた。
 とはいえ、前に示したように、石田は「私が最近、柳田先生から直接承ったところによっても、先生ご自身は日本民俗学のありかたとして、この方向[国史への統合]に進むことを望んでおられる」と話している。その内容について、石田はとくになにも語っていない。しかし、国男が国史(日本史)のあり方をどう思っていたかを推測させる談話が雑誌「心」の1954年(昭和29)8月号に掲載されていた。そのタイトルはずばり「国史教育について」となっている。
 ここで国男はこれまでの国史の「時間の切り方が人物本位」になっていて、たとえば豊臣秀吉のように少年が喜びそうな素材、あるいは教訓めいた人物をとりあげて、大事件を羅列すれば歴史がわかったような気になっていたと、これまでの歴史教育のあり方を批判している。

〈そのため、もし事ある際の覚悟はできたろうが、幸いにして何も事がなくて50年、70年の静かな生活を送っている人間としては、手本にすべきものがない。農民のなかで無事を重んじ、おだやかな考えで、村を平和にするとか楽しくしようとした功労者はずいぶんいるが、それでも何か事件がないと伝記にならない。……赤穂の義士とか何とかいって、忠義の見本はどんなものかというと、必ず死ぬ物語で、これは本当に困ったものである。そういうのが戦争を否認してしまった時代になってから、もういっぺん生き返るわけがないから、過激なことを言わずに、歴史のなかに伝わっている不幸なる実例を、ことに本人にとっては不幸な実例だということを、もう少しおとなしく穏やかに説いて聞かせる必要がある〉

 これまでの国史が皇室中心の歴史で、近世や近代をあまりとりあげていないことも問題だった。なぜ日本が、今度の戦争で敗北したのかを考えるためには、歴史のなかから教訓をさぐるしかないと国男は思っていた。
 ところが──

〈近世のことは子どもが大きくなってからやるというふうだったから、この世の中の激しい変遷をはじめとして今度の大敗北などという重要なことの原因の探求には、一人だって答えられる者はない。軍閥の横暴というが、軍閥の横暴だけでこれだけの結果になりはしない。軍閥の横暴を許すような世の中が長いあいだに積み重ねられていたということを考えるのが歴史である〉

 この談話がおもしろいのは、一歩踏みこむかたちで、国男が日本人の心理的特性として「小国思想」を挙げていることである。ここにはルース・ベネディクトが『菊と刀』で示した「恥の文化」に対するかれなりの反論が隠されている。

〈……日本人の歴史のなかを貫いている最大のモティーフは何かというと、「恐れ」だと思う。今でこそ世界に冠たるなどと言っているが、あまりに自然の圧迫が強いし、周囲に大きな進んだ国があって、朝鮮だって、今でこそばかにしているが、以前は日本の先輩でもあり、その脇には立派な国がたくさんある。滅びはしなかったが、襲われた経験はたびたびある。それでよその国の話を聞けば聞くほどますます不安と恐れを感じ、よそから圧迫されやしないかという気持ちが強かった。日本の近世の軍国主義のいちばん大きい病は、やはり小国思想だと思う〉

 明治以来の皇室中心にまとまるという心理も、国男にいわせれば日本人の「不安な感覚」のあらわれだった。そこからなにかというと人びとが「盲目的に結合」する傾向が生まれ、「外側にいると危ないから中へ入ろうとする気持ち」、「群から別れまいとする」心理が広がり、それが日本人の「雷同付和」へとつながる。
 国男は個人主義と民主主義は、日本人からもっとも遠い思想だと話している。仲間意識が「いじめ」へと発展し、それが優越感や事大主義、あるいはその裏返しとしてのへつらいにつながりやすいとも指摘している。
 国男はかつて沖縄で「世界苦か孤島苦か」という講演をしたことを思い出す。沖縄の孤島苦のほうが世界苦よりもずっと苦しい。世界とは文字どおり「世界」のことでもあり、「世間」のことでもある。日本人はいつも「世界」から圧迫されているという気持ちを感じている。いっぽう「世間」をわたっていくのはたいへんだ。その両方をあわせて、国男は「世界苦」と表現した。
 沖縄の「孤島苦」が「世界苦」よりも苦しいのはなぜか。
 国男はこう話している。

〈沖縄では東京化をねらって、同化するのに一所懸命だった。だから自分らの仲間の哀れな者を押さえつけようとする。たとえば[奄美]大島と沖縄とは隣どうしの島だが、大島のほうが少し本土に近いし、人間の教育もいいから、大島の者が沖縄へ来て儲ける。大阪の商人の代理人や支配人になって来る。すると沖縄人のなかでやや優れた人たち、話のよくわかる日本語などわかる人間が、やはり大阪の砂糖問屋などの番頭になって、自分の島の人間をいじめる。沖縄本島のなかにいると、血のつづきがあったり、輿論の制裁があるから、そんなに悪いことはできないが、離れると、少々小さな島に対しては、ちょうど日本人が沖縄人をばかにするのよりももう少し強い程度でいじめる。ばかにする。そうして自分の優秀感をそれから得る〉

 本土が南島をばかにし、大島が沖縄をばかにし、沖縄が宮古や八重山をばかにし、多良間が水納(みんな)をばかにする。同じ沖縄のなかの、そうした差別と屈辱の連鎖を、国男は「孤島苦」と呼んだ。
 ところが、近代の日本人は、それと同じことを近隣諸国に押しつけたのである。

〈明治以来の日本人はそれと同じことをやっている。だから沖縄を悪くいうことができない。日本人全体が、どうしても確かな武器を持って戦えるだけ戦える機運をつくらなければならぬと思ってきた。それがなかなか思うようにいかなかったが、それが幸か不幸か、非常に工業が進んだので、それでやれると思いはじめた。日露戦争はそれで成功はしたが、その日本がこんな悲惨な敗北へ、ああああといっているうちに落ちてきた。なぜこのようなことになったのかを教えるのが、国史の主要なる目的だと私は思う〉

 国男は日本人の民族性を手放しで称賛していたわけではない。むしろ日本近代史への深い反省に立ち、日本人が世間に付和雷同しない個を確立することが戦後の課題だと考えていた。
 そのための前提となるのは人類(アントロポス)に対する共感であり、さらには民衆の生活史に対する深い認識でなければならなかった。
 そうしたことどもを国男はおそらく石田英一郎にも熱心に語っていたにちがいない。だからこそ石田は「先生の意図」が、国史(日本史)の一部に民俗学を組みこむこと、ひいては民俗学を国史に解消することだと思っていたのである。
 だが、おそらくそれは石田の誤解だったといわねばならない。国男は民俗学が人類学や国史にまたがる学問だと考えていたけれども、それでもまだ民俗学にはまだ切り開かねばならない新たな領野があるはずだと信じていた。それは宮本常一や梅棹忠夫が引き受けようとしていた仕事と同じだとはかぎらない。だから膝下の民俗学研究所のなかから、柳田民俗学を超える「方法論」が生まれることを期待したのである。
 だが、その期待が満たされることはなかった。
 民俗学研究所の解散は必至となっていた。

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