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超訳万葉集(第2巻)[141〜55] [超訳「万葉集」]

鎮魂歌
■斉明天皇の時代(はじめ皇極天皇、のち重祚、在位655-61[女帝])
有間皇子(640-58)がみずからの身を悲しんで、松の枝を結ばれたときの歌2首[有間皇子は孝徳天皇の子。孝徳天皇は宮中の実権を握った中大兄皇子に批判的だった。孝徳天皇死後、有間皇子は蘇我赤兄の陰謀により、斉明天皇と中大兄皇子に謀反をくわだてているとのうわさをたてられ、中大兄皇子による尋問のすえ、藤白坂(現和歌山県海南市)で絞首刑に処された。有間皇子の伝承には、おそらく歌物語が存在したものと思われる。それにしても中大兄皇子(のちの天智天皇)には謎が多い。そもそも大化の改新とは何だったのか、なぜかれは晩年まで天皇になれなかったのか、大海人皇子(のちの天武天皇)はほんとうに弟だったのか、壬申の乱の正体は? 歌のかずかずから、はたしてどのようなイメージが浮かんでくるだろうか]
[141]
磐白(いわしろ)の浜松の枝を結んでおこう
だれもがするように
旅の安全を祈って
もし無事でいられたなら
戻ってまた見たいから

[142]
家にいるときは
器に盛って食べるのに
流亡の旅のいまだから
椎の葉にめしを盛っている

■長忌寸意吉麿(ながいみのおきまろ)が結び松をみて、嘆き悲しんだ歌
[143]
磐白の岸で
松の枝を結んだ人は
戻ってまた
これをみただろうか

[144]
磐白の野中に立つ
結び松をながめると
心結ぼれたまま
昔がしのばれる[作者は不詳]

■山上憶良(660?−733?)が持統天皇行幸のさい(690年)意吉麿にあわせてつくった歌[事件から32年後]
[145]
天翔る皇子は
ここにきて
見ておられるだろう
人はわからないけれど
松にはわかるはず

■大宝元年[701年]紀伊国行幸のときに結び松をみた歌[柿本人麿歌集から]
[146]
また戻って見ようと
皇子が結んだ
磐代の小松
その緑の新芽を
またご覧になっただろうか

■天智天皇の時代(626-72、在位668-72)
天皇が重い病気になられたとき皇后のたてまつられた歌

[147]
天の原を
はるかにあおぐと
大君のお命が
どこまでも
満ちておられます

■一書によると、天皇がみまかったとき、皇后のつくられた歌

[148]
青く木々のはためく
木幡山の上を
おわたりになっている
それが目にはっきり見えます
すぐにでもお会いしたいのに
いまはまだそれがかないません

■天皇がみまかったとき、皇后(倭姫)のつくられた歌
[149]
たとえ人が
思わぬようになっても
いつまでも
そのお姿やかたちが
しのばれ
わたしはけっして忘れません

■天皇がみまかったとき、ある女官がつくった歌(姓名未詳)
[150]
いまあるこの身は
神に近づけない
離れて目覚めるたび
悲しみにくれ
遠くから思っております
玉ならばいつも手に巻き
衣ならばいつも身につけ
そのようにお慕いする大君を
昨夜夢にみました

■大殯(おおあらき)[埋葬に先立つ祭]のときの歌2首
[151]
早く逝かれるのを知っていたら
大きなみ船の泊まる泊まりに
しっかり標(しめ)をつけておけばよかった
船がそこから出ていかないように[額田王]

[152]
天下をあまねく治められた
大君の大み船が
戻るのを待ちかねておりましょう
志賀の辛崎では[舎人吉年]

■皇后の歌1首
[153]
大きな淡海の海[琵琶湖]の
沖遠く漕ぎゆく船
岸近く漕ぎゆく船
櫂のしずくをはねずにおくれ
若いころ夫の好きだった鳥が飛び立ってしまうから

■石川の夫人の歌1首
[154]
さざ浪の大山の山守が
山に標(しめ)を結んでいる
いったいだれのため
もう大君もいらっしゃらないのに

■山科の御陵からまかりでるとき、額田王がつくった歌[天智天皇陵ができたのは、壬申の乱のあと。宮中の様子はすっかり変わっている]
[155]
天下をあまねく治められた尊い大君の
畏れ多くもその御陵にお仕えする
山科の鏡の山に
夜は夜どおし
昼はひねもす
さめざめと泣いてばかりいた
あの宮の大宮人も
もはやちりじり

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