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生命科学としての道教──台湾の旅(16) [旅]

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さて、三浦国雄先生によると、人には魂魄(こんぱく)というふたつの霊があって、死ぬと魂は頭から、魄はお尻から抜けていくというのが道教の考え方だといいます。
まだ生きているときでも魂が抜けてしまうような経験をすることがあります。悪鬼が自分のからだのなかにはいってきて、魂が下駄の上にボタッと落ちたという話もあるそうです。
下駄の上でも道端でも、魂がボタッと落ちるとたいへんですよね。沖縄では子どもがよく魂(まぶい)を落とすことがあるので、まぶいを戻すとなえごとをするそうです。
そういえば、このところ、ぼくもしょっちゅう魂をあちこち落としているような気がします。だいじょうぶかな。
だから魂というのは、自分のなかにある神のことでもあります。
三浦先生によると、この自分のなかにある神を育て、最終的に無事「出神」させること、つまりからだから出していくことが、道教の修業だというのです。そうなれば、人は「真人」(ニーチェの「超人」よりいいかも)、あるいは不老不死の法を習得した「仙人」になることができます。生死を超えてしまうわけですね。
どうすれば仙人になれるか、そんなことぼくに聞かれても困ります。
このあたりの修業法はちとたいへんらしいので、大幅に省略。
でも、どうやら「精」をあつめ、「気」を養って、「神(しん)」を育てるというところにポイントがありそうです。
お酒を飲みすぎたり、カラオケで歌いすぎたり、その他、遊びすぎたりして「精」を放散してはなりません。とりわけ房中は気をつけるべし。精をあつめないと気が失われます。
気は呼吸法ともつながりがあるようです。外のいい空気をからだに取り入れ、それを全身にめぐらせるのがだいじです。
次に神は集中ですね。〈精神〉というのは、まさに精をあつめて神をつくりだすことを指しています。とりわけ道教では丹田(へその奥)、そして泥丸(眉間)に意識を集中させることを重視します。
ふだんから、これをこころがければ、(悪い病気がないかぎり、あるいは悪い病気があっても)まずは「心の安定が得られ、体に活力がみなぎり、養生がかなう」とのこと。
いいですね。これならラジオ講座の「英会話」よりつづきそう。
しかし、ほんとにむずかしいのは、そのあとかな。
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自分のうちにあるもうひとりの自分を育てる、と三浦先生は書いています。
「もうひとりの自分」というのが、とてもいいですね。
でも、これはどういうことでしょう。
自分の「金丹」を育てると、「陽神」としての真の自己が生まれ、これが開いた「天門」から外に出て、太虚と合一して、「身外の身」になるというのが、どうやら道教の「悟り」のようです。
このあたりのことは、ぼくにはよくわかりません。
とはいえ、もうひとりの自分を育てて、「虚体」のようなものをつくるという発想が気にいっています。
三浦先生はこう書いています。

〈道教は、体内に息づく生命をフィジカルな手段で感じ、そして豊かなイマジネーションで表現することを重要視している宗教です。道教は、体内の生命に向かい合い、それを常に見つめつづけ、独自の豊かな世界観、生命観を構築している、という点からすれば、これもまた、一つの生命科学といってもよいのではないかと思います〉

俗っぽい民間宗教と思っていた道教の見方、これで少し変わりませんか。
道教おそるべし。
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ぜんぜん関係ありませんが、『幽玄道士』でキョンシーをやっつけていたテンテンがかわいかったな。
あれはもう四半世紀前。
とつぜん、そんなことをふと思いだしました。

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