山片蟠桃と伊能忠敬は出会ったか? [雑記]
きょうはちょっとマニアックな話です。
きのう久方ぶりに東京へ行く用事があったので、少し国会図書館に立ち寄って、『伊能忠敬測量日記』をあさってみました。
山片蟠桃(1748-1821)と伊能忠敬(1745-1818)に、もちろんつながりはあります。
ふたりをつなぐのは、大坂の麻田剛立(ごうりゅう、1734-99)という天文暦学者です。
蟠桃は大坂の本町で「先事館」という私塾を開いていた剛立のもとによく出入りしていました。ですから、剛立の弟子といってもよいでしょう。
蟠桃の大宇宙論や地動説は剛立の影響を受けています。
いっぽう佐原の伊能忠敬は50歳のとき、長男に家督をゆずり、江戸に出て、幕府の天文方、高橋至時(よしとき、1764-1804)に天文や測量を学びます。
高橋至時は、麻田剛立の愛弟子です。寛政7年(1795)、幕府は改暦を議するため、剛立を江戸に召しだそうとしますが、かれは高齢を理由として、これに応じず、代わって、幕府の開設した通称「浅草天文台」所長に愛弟子の至時を送りだしました。
ですから、高橋至時から学んだ伊能忠敬は、麻田剛立の天文暦学を吸収したことになり、その意味で、剛立の教えを直接受けた山片蟠桃と知的水脈においてつながっていることになるわけです。
問題は、はたして山片蟠桃と伊能忠敬は実際に出会ったことがあるのかということです。
井上ひさしの小説『四千万歩の男』には、たしか仙台あたりの宿で、ふたりが出会って、難事件を解決するとともに、熱く語りあい、末永い友情を交わすといった場面が出てきます(手元に本がないので、うろおぼえですが)。
ところが、これは実はありえないのです。
伊能忠敬が子午線1度の距離を測定するのを兼ねて、蝦夷地に向かう第1次測量に着手するのは寛政12年(1800)4月19日のことです。このときは10月21日に江戸に戻っていますが、仙台を訪れたのは行きの4月27日との記録が残されています。
本州東海岸を調査する第2次測量がおこなわれるのは享和元年(1801)。4月2日に江戸を出発し12月7日に帰着するこの測量で、伊能忠敬は8月27日と28日の2日間、石巻に泊まっています。
いっぽう山片蟠桃がはじめて仙台を訪れたのは寛政9年(1797)のことです。1月28日に大坂を出発し、3月1日に仙台の青葉城に登城します。3月6日から8日にかけ、仙台米の積み出し港となる石巻も訪れています。このときは蟠桃が番頭をつとめる升屋が仙台藩の蔵元になるという話が本決まりになろうとしていました。大坂に帰着するのは5月上旬。
蟠桃がもう一度仙台におもむくのは、文化8年(1811)春のことです。このときは仙台藩主、伊達周宗(むねちか)の目通りを受ける予定だったのですが、藩主病気のためかないませんでした。
さらに事実関係を追加すると、蟠桃は持病を治すため寛政11年(1799)秋に湯島(現在の城崎)で長逗留し、大坂に戻った翌年は船場であわただしく仕事をしています。升屋が仙台藩の蔵元を引き受けるにあたっての秘策を練っていたといってよいでしょう。
こうして、享和元年(1801)から升屋は仙台藩の蔵元になるのですが、この年も蟠桃が仙台におもむいた形跡はありません。むしろ、ひとしごとを終えたあと、畢生の大作『夢の代』に結晶することになる『宰我の償い』を書きはじめようとしているのです。
だから、どうみても日時がずれています。井上ひさしが小説で描いたように、寛政12年、あるいは享和元年に、仙台や石巻で伊能忠敬と山片蟠桃が出会った形跡はないのです。そのころの忠敬の日記にも蟠桃の名前はでてきません。
それでは大坂ではどうでしょうか。
伊能忠敬は文化2年(1805)2月25日から翌3年11月15日まで、第5次測量をおこなっています。このときは紀伊半島を回って、文化2年8月18日から25日まで大坂に滞在します。そして、そのあと瀬戸内を回って、岡山で越年し、下関から山陰地方へと回る旅がつづきます。
大坂に滞在したとき、忠敬はいろんな人と会っていますが、日記で見るかぎり、升屋あるいは蟠桃の名前はありません。
ただ、このときよく出てくるのが間清一郎(はざま・せいいちろう)という人物です。これはかつて浅草の天文台で高橋至時とともに忠敬に天文学を教えた間重富(1756-1816、はざま・しげとみ)のことではないでしょうか。間重富はこのころ江戸から大坂に戻っていました。
もうひとり、麻田立達という人物がでてきます。これはおそらく麻田剛立の息子だと思われます。8月24日に忠敬はこの立達らとともに、浄春寺の麻田剛立の墓を詣でているのです。
ついでですから、それから3カ月後(この年は閏の8月がありました)の10月12日と13日に、忠敬がぼくの田舎である高砂を訪れていることにも触れておきましょう。
このとき忠敬は高砂・北本町の原喜三右衛門のところに宿を借りています。高砂にはいる前、別府(べふ)では手枕の松を眺め、尾上で古鐘と相生の小松を一覧し、それから高砂の牛頭天王(いまの高砂神社)で、相生の松を一見しています。忠敬が宿泊先とした原家の当主は、高砂の大年寄をつとめていました。そのほか忠敬は菅谷恵左衛門、梶原長左衛門、代市野右衛門などといった町の有力者と会っています。
気になるのは高砂町を出立した10月14日の日記です。
現代語に訳すと、およそこんなふうに書かれています。
〈……高砂町より、ただちに岡道を的形村へ行く。曽祢(そね)天満宮を参詣。……寛政5年(1793)4月末に播州を遊覧したさい、菅原道真公が手ずから植えられたとされる古松が龍のように苔むし、葉が短く針のようにとがり、実に千年もへたと思われる、我が国第一の古松だと感じいったものだ。それがことし12年ぶりに訪れると、名松は枯れてしまっており、その残りが無残な姿をさらしている〉
気になるというのは、曽祢の松もさることながら、寛政5年に忠敬が播州を遊覧したことがあるという記述です。
伊能忠敬が家督を長男にゆずって江戸に出るのは寛政6年のことです。すると、その1年前に忠敬は播州にやってきたことになります。このころ大坂ではまだ麻田剛立が健在でした。ひょっとしたら、忠敬は麻田剛立と会ったことがあるのではないでしょうか。それゆえに12年後の剛立の墓参りにつながったとは考えられないでしょうか。
ちなみに忠敬が播州を遊覧した寛政5年の9月、山片蟠桃は「昼夜長短図並解(ならびにかい)」をまとめ、師の麻田剛立に提出しています。これは季節ごとの昼と夜の長さを日本だけではなく全世界にわたって比較した画期的な表でした。
もし寛政5年に伊能忠敬が麻田剛立のもとを訪れていたとしたら、かれは蟠桃のこの「昼夜長短図」を見なかったでしょうか。何の根拠もありませんが、空想は広がります。
事実に戻りましょう。
伊能忠敬が第6次測量に従事したのは文化5年(1808)1月25日から同6年1月18日にかけてのことで、四国沿岸が主な調査対象でした。このときは舞子浜から淡路をへて四国に渡るのですが、その行き帰り2月24日から28日にかけてと、11月21日から25日にかけての2度、大坂に泊まっています。宿泊地は最初は大坂の呉服町、二度目は淡路町です。
このときも間清市郎や麻田立達などと会っていますが、残念ながら蟠桃の名前はありません。このころ蟠桃は大著『夢の代(しろ)』をほぼ書き上げていました。
ぼくの知るかぎり、いまのところ山片蟠桃と伊能忠敬が出会ったという証拠は見つかっていません。
それでも不思議なことがあります。
蟠桃がつとめた大坂の豪商・升屋には伊能図(忠敬のつくった日本地図)が残されているのです。升屋の蔵書の大半は蟠桃が集めたものです。それほど多くつくられたとも思えない伊能図がどうして升屋にあったのでしょうか。ここに残された伊能図は「寛政12年小図」で、ごく初期のものです。
のちにシーボルト事件を引き起こすことになる、いわばマル秘の「伊能図」が升屋に残されていることは、升屋(すなわち蟠桃、ないし主人の平右衛門重芳)と伊能忠敬の関係がただならぬものであったことを意味しています。
しかし、謎はここでぷつりと切れたままで、いまのところ未解決です。
蟠桃と忠敬の出会い、なんだかわくわくしますね。
何とか証拠を見つけたいものです。
きのう久方ぶりに東京へ行く用事があったので、少し国会図書館に立ち寄って、『伊能忠敬測量日記』をあさってみました。
山片蟠桃(1748-1821)と伊能忠敬(1745-1818)に、もちろんつながりはあります。
ふたりをつなぐのは、大坂の麻田剛立(ごうりゅう、1734-99)という天文暦学者です。
蟠桃は大坂の本町で「先事館」という私塾を開いていた剛立のもとによく出入りしていました。ですから、剛立の弟子といってもよいでしょう。
蟠桃の大宇宙論や地動説は剛立の影響を受けています。
いっぽう佐原の伊能忠敬は50歳のとき、長男に家督をゆずり、江戸に出て、幕府の天文方、高橋至時(よしとき、1764-1804)に天文や測量を学びます。
高橋至時は、麻田剛立の愛弟子です。寛政7年(1795)、幕府は改暦を議するため、剛立を江戸に召しだそうとしますが、かれは高齢を理由として、これに応じず、代わって、幕府の開設した通称「浅草天文台」所長に愛弟子の至時を送りだしました。
ですから、高橋至時から学んだ伊能忠敬は、麻田剛立の天文暦学を吸収したことになり、その意味で、剛立の教えを直接受けた山片蟠桃と知的水脈においてつながっていることになるわけです。
問題は、はたして山片蟠桃と伊能忠敬は実際に出会ったことがあるのかということです。
井上ひさしの小説『四千万歩の男』には、たしか仙台あたりの宿で、ふたりが出会って、難事件を解決するとともに、熱く語りあい、末永い友情を交わすといった場面が出てきます(手元に本がないので、うろおぼえですが)。
ところが、これは実はありえないのです。
伊能忠敬が子午線1度の距離を測定するのを兼ねて、蝦夷地に向かう第1次測量に着手するのは寛政12年(1800)4月19日のことです。このときは10月21日に江戸に戻っていますが、仙台を訪れたのは行きの4月27日との記録が残されています。
本州東海岸を調査する第2次測量がおこなわれるのは享和元年(1801)。4月2日に江戸を出発し12月7日に帰着するこの測量で、伊能忠敬は8月27日と28日の2日間、石巻に泊まっています。
いっぽう山片蟠桃がはじめて仙台を訪れたのは寛政9年(1797)のことです。1月28日に大坂を出発し、3月1日に仙台の青葉城に登城します。3月6日から8日にかけ、仙台米の積み出し港となる石巻も訪れています。このときは蟠桃が番頭をつとめる升屋が仙台藩の蔵元になるという話が本決まりになろうとしていました。大坂に帰着するのは5月上旬。
蟠桃がもう一度仙台におもむくのは、文化8年(1811)春のことです。このときは仙台藩主、伊達周宗(むねちか)の目通りを受ける予定だったのですが、藩主病気のためかないませんでした。
さらに事実関係を追加すると、蟠桃は持病を治すため寛政11年(1799)秋に湯島(現在の城崎)で長逗留し、大坂に戻った翌年は船場であわただしく仕事をしています。升屋が仙台藩の蔵元を引き受けるにあたっての秘策を練っていたといってよいでしょう。
こうして、享和元年(1801)から升屋は仙台藩の蔵元になるのですが、この年も蟠桃が仙台におもむいた形跡はありません。むしろ、ひとしごとを終えたあと、畢生の大作『夢の代』に結晶することになる『宰我の償い』を書きはじめようとしているのです。
だから、どうみても日時がずれています。井上ひさしが小説で描いたように、寛政12年、あるいは享和元年に、仙台や石巻で伊能忠敬と山片蟠桃が出会った形跡はないのです。そのころの忠敬の日記にも蟠桃の名前はでてきません。
それでは大坂ではどうでしょうか。
伊能忠敬は文化2年(1805)2月25日から翌3年11月15日まで、第5次測量をおこなっています。このときは紀伊半島を回って、文化2年8月18日から25日まで大坂に滞在します。そして、そのあと瀬戸内を回って、岡山で越年し、下関から山陰地方へと回る旅がつづきます。
大坂に滞在したとき、忠敬はいろんな人と会っていますが、日記で見るかぎり、升屋あるいは蟠桃の名前はありません。
ただ、このときよく出てくるのが間清一郎(はざま・せいいちろう)という人物です。これはかつて浅草の天文台で高橋至時とともに忠敬に天文学を教えた間重富(1756-1816、はざま・しげとみ)のことではないでしょうか。間重富はこのころ江戸から大坂に戻っていました。
もうひとり、麻田立達という人物がでてきます。これはおそらく麻田剛立の息子だと思われます。8月24日に忠敬はこの立達らとともに、浄春寺の麻田剛立の墓を詣でているのです。
ついでですから、それから3カ月後(この年は閏の8月がありました)の10月12日と13日に、忠敬がぼくの田舎である高砂を訪れていることにも触れておきましょう。
このとき忠敬は高砂・北本町の原喜三右衛門のところに宿を借りています。高砂にはいる前、別府(べふ)では手枕の松を眺め、尾上で古鐘と相生の小松を一覧し、それから高砂の牛頭天王(いまの高砂神社)で、相生の松を一見しています。忠敬が宿泊先とした原家の当主は、高砂の大年寄をつとめていました。そのほか忠敬は菅谷恵左衛門、梶原長左衛門、代市野右衛門などといった町の有力者と会っています。
気になるのは高砂町を出立した10月14日の日記です。
現代語に訳すと、およそこんなふうに書かれています。
〈……高砂町より、ただちに岡道を的形村へ行く。曽祢(そね)天満宮を参詣。……寛政5年(1793)4月末に播州を遊覧したさい、菅原道真公が手ずから植えられたとされる古松が龍のように苔むし、葉が短く針のようにとがり、実に千年もへたと思われる、我が国第一の古松だと感じいったものだ。それがことし12年ぶりに訪れると、名松は枯れてしまっており、その残りが無残な姿をさらしている〉
気になるというのは、曽祢の松もさることながら、寛政5年に忠敬が播州を遊覧したことがあるという記述です。
伊能忠敬が家督を長男にゆずって江戸に出るのは寛政6年のことです。すると、その1年前に忠敬は播州にやってきたことになります。このころ大坂ではまだ麻田剛立が健在でした。ひょっとしたら、忠敬は麻田剛立と会ったことがあるのではないでしょうか。それゆえに12年後の剛立の墓参りにつながったとは考えられないでしょうか。
ちなみに忠敬が播州を遊覧した寛政5年の9月、山片蟠桃は「昼夜長短図並解(ならびにかい)」をまとめ、師の麻田剛立に提出しています。これは季節ごとの昼と夜の長さを日本だけではなく全世界にわたって比較した画期的な表でした。
もし寛政5年に伊能忠敬が麻田剛立のもとを訪れていたとしたら、かれは蟠桃のこの「昼夜長短図」を見なかったでしょうか。何の根拠もありませんが、空想は広がります。
事実に戻りましょう。
伊能忠敬が第6次測量に従事したのは文化5年(1808)1月25日から同6年1月18日にかけてのことで、四国沿岸が主な調査対象でした。このときは舞子浜から淡路をへて四国に渡るのですが、その行き帰り2月24日から28日にかけてと、11月21日から25日にかけての2度、大坂に泊まっています。宿泊地は最初は大坂の呉服町、二度目は淡路町です。
このときも間清市郎や麻田立達などと会っていますが、残念ながら蟠桃の名前はありません。このころ蟠桃は大著『夢の代(しろ)』をほぼ書き上げていました。
ぼくの知るかぎり、いまのところ山片蟠桃と伊能忠敬が出会ったという証拠は見つかっていません。
それでも不思議なことがあります。
蟠桃がつとめた大坂の豪商・升屋には伊能図(忠敬のつくった日本地図)が残されているのです。升屋の蔵書の大半は蟠桃が集めたものです。それほど多くつくられたとも思えない伊能図がどうして升屋にあったのでしょうか。ここに残された伊能図は「寛政12年小図」で、ごく初期のものです。
のちにシーボルト事件を引き起こすことになる、いわばマル秘の「伊能図」が升屋に残されていることは、升屋(すなわち蟠桃、ないし主人の平右衛門重芳)と伊能忠敬の関係がただならぬものであったことを意味しています。
しかし、謎はここでぷつりと切れたままで、いまのところ未解決です。
蟠桃と忠敬の出会い、なんだかわくわくしますね。
何とか証拠を見つけたいものです。
2011-06-30 10:29
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木村先生?
「蟠桃の夢」拝読させて頂きました。私は高砂(米田町)に住在しております。この度の記事を大変興味深く拝読させて頂きました。同じ在郷人が出版されておられること嬉しく思います。かねてより郷土の偉人に関心を持って、神爪にお住まいだった長谷川裕己氏や鳥居賢治氏の話を何度も聞かしていただいたものです。(残念ながら両氏とも他界)
実は、私はこの播磨路における伊能忠敬の足跡を訪ね、あわせてふるさとに残る郷土遺産の再発見とその保存に少しでも役に立てばと製本等にして紹介も致しております。その中で先般俳優座の映画「子午線の夢」や井上ひさしの「4000万歩の男」を見まして忠敬とわが郷土の偉人・蟠桃が仙台で彼の測量作業を助けたとのシーンが、いずれもかなり時間をかけて紹介されており、すっかり優越感に浸っておりました。ところがどうもこのストーリはフイクションくさく感じられ、東京の伊能忠敬顕彰会の方に確認いたしたところ、仙台での接触はなく当時の有名人同士であったので作り話?との回答をいただきました。少なくとも測量日記の登場人物の中には「山片蟠桃」の名前は一切出てこないとの回答を得ました。がっかりです。そこで先生が書かれた雑記の中で私なりに検証してみました。
忠敬と蟠桃は本当に出会っていないのかの疑問?
①寛政8年(1796年)忠敬が泉州貝塚住「岩橋善兵衛」に望遠鏡を製作依頼している。・・・懐徳堂一連のメンバーが各所に紹介している。即ち高橋至時、間重富あたりを通じてのコンタクトはあったのは間違いないと思う。
②山片重秀が購入の「ナクトケイキル」は麻田剛立を通じて関係者に広まり忠敬の耳にも入っている(そのため岩埼に望遠鏡注文)
③大阪開平小学校(愛日文庫)に伊能小図保存(なぜ蟠桃が持っていたのか、当時貴重な品が手持ちである)・・・大半が蟠桃が集めたと聞きます。忠敬フアンとしてはどうしてもこの小図を拝見したいのですが、どのような手続きが必要かもしわかればお教えください。
③麻田剛立との繋がり・・・ご指摘のように大阪に立ち寄りの際、墓参りに行ったとありますが、忠敬寛政5年の関西旅行記では4月~5月頃に大阪に入っているようです。ところが蟠桃が麻田に提出したと言われる「昼夜長短並解」は9月に提出されていますので、この書は見なかったものと思われます。しかし何らかの方法で懐徳堂の人々とどこかであっていると思われるのですが、残念ながらその記録が見つかっていないのは悔やまれます。以上私の素人の見解ですが先生のご指導をいただけたら幸いです。 宜しくお願いいたします。
by 高塚洋 (2018-07-13 16:27)
拙著をお読みいただき、ありがとうございます。私もまたいろいろと調べてみたいと思います。取り急ぎ、お礼のみにて失礼します。
by だいだらぼっち (2018-07-31 16:16)