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スミス対マルクス──『北京のアダム・スミス』を読む(4) [本]

著者のアリギはふたつの経済発展のちがいを強調する。
ひとつは社会的枠組みをこわさずに、社会の潜在的な力を引きだすタイプ。いわばスミス型の「自然的」な成長である。
もうひとつは社会的な枠組みを破壊して、新たな枠組みをつくりかえるタイプ。いわばシュンペーター=マルクス型の創造的破壊による成長である。
本書の第2章、第3章は、このふたつのタイプの経済成長をとりあげている。
まずスミスは経済成長をどのようにとらえていたか。
著者の理解は通説とはことなる。
『国富論』は「市場を存在させるための諸条件を創造したり再生産したりする強い国家の存在を前提していた」という。スミスは国防や治安だけではなく、市場を含む社会全体への国家の介入をむしろ擁護していたというのだ。その目的はあくまでも経済社会に対する市場社会化のショックをやわらげることにあり、自身が「自己調整的な」市場を提唱したわけではなかった。
これはユニークなとらえかたといわねばならない。
著者によると、スミスはまた終わりなき「経済成長」を唱えたわけではない。競争とともに利潤率は低下するとみており、これを突破するには新規商品の開拓が必要になるが、それにもおのずから限度があると考えていた。
スミスにとって経済成長とは、人民と資本(蓄え)によって、空間(国)を満たすことにほかならなかった。
スミスといえば分業論だが、かれは労働者による単純な反復動作が経済効率を高めると評価したわけではない。むしろ、簡単な方法に集中することで、創意工夫が高まり、それによって技術進歩と労働の専門化が進むとみていたというのだ。
こうして生産単位が専門化すると同時に社会的分業が進展することになる。

〈スミスが労働の生産力にもっとも大きな肯定的影響があるとしたのは、生産単位自体における労働の専門化(つまり技術的分業の増大)よりも、専門化される生産単位や生産部門の出現(つまり社会的分業の増大)であった〉

農業と小売業(国内市場)→国内貿易→外国貿易へと経済が発展するのが、スミスの考える自然の経路だ。ところが往々にして事態は逆の方向に進む。立法者はできるかぎり、非自然的な経路をできるだけ自然の経路に沿うよう修正していかねばならないとスミスは提言する。

〈スミスの最大の関心事は、国益を追求する中央政府の能力の確立とその保全にある〉

スミスに対する著者の評価はきわめて高い。それはスミスが市場経済の緩やかな成長を「自然的な」経路とみていたからで、それに対して資本主義的な発展は「非自然的な」経路と考えていた。これもまたユニークなスミス論である。

これに対し、著者はシュンペーターとマルクスを資本主義の分析家ととらえる。この見方も独特だ。
シュンペーターは、資本主義には「[従来の]社会的枠組みを破壊し、より大きな成長の潜在力をもつ新たな枠組みの出現のための諸条件を創造しようとする」傾向があるとみていたという。
マルクスは資本主義を動かしている源は終わりなき貨幣の蓄積だと考えていた。かれが資本主義の出発を16世紀における世界商業と世界市場の創出に求めるのは当然だった。したがって、マルクスによれば「アジアの諸国や文明は、ヨーロッパの資本主義的な経路の出現を可能にした市場を提供したのであって、ヨーロッパのブルジョワジーの襲来に対して生き延びるチャンスはなかった」ということになる。
資本主義の特徴を資本の自己拡張ととらえ、それをたえざる均衡の転覆、いいかえれば創造的破壊と名づけたのはシュンペーターだった。
マルクスによれば「貨幣の一般的形式を表現するものとしての資本は、自らを制限する障壁を乗り越える、終わりも限界もない駆動力である」。資本主義はみずからを過剰蓄積による危機へと追いこむ傾向をもっているが、マルクスはもろもろの危機をバネに資本主義は根本的再構成をはかると考えていたという。
また、競争の激化にともなう利潤率の低下に対応するために、資本は集積(規模増大)あるいは集中(統合)によって、その危機を乗り越えようとするとマルクスは指摘している。その際、重要になってくるのが信用制度、すなわち金融の役割である。
シュンペーターが焦点をあてたのは「創造的破壊のプロセスの両面としての好況と不況の概念」だった。そのプロセスを通じて、古い経済構造は絶え間なく破壊され、革新を通じた新たな経済構造が創造される。
シュンペーターは創造的破壊による革新を「新結合の遂行」ととらえ、そのような革新的行為者を「企業者」と名づける。

〈それらは、工業における技術的・組織的革新だけではなく、あらゆる商業的な革新──新たな市場や新たな貿易のルート、新たな供給源、新たな生産物のマーケティングの開始、あるいは商品の獲得と売却における新たな組織の導入といったような──をも含むものであり、それらもろもろの革新は、新たな経路へと経済を「導く」ことに成功する〉

こうしてざっと見ていくと、著者のアリギは、スミスとマルクス=シュンペーターとを鋭く対比し、みずからはスミスの側に立つと宣言しているように思える。
資本主義的発展は、スミスからみれば「非自然的な」発展だった。それは長距離貿易と産業革命によって生じた。資本主義は創造的破壊によって発展する。農民が生産手段から分離され、先住民が制圧され、ときに奴隷として扱われたのも、そうした破壊の一形態にほかならない。ブローデルのいうように「資本主義は、それが国家と一体化するとき、それが国家であるときにのみ栄える」。資本主義とは「資本と権力の終わりなき蓄積の継起」として定義できる。
そうした資本主義の構図をマルクスとシュンペーターは描いてみせた。
しかし、ほんとうはもっと別の径路がありうべしなのではないか。それは市場社会の自然で緩やかな拡大をともないながら、反資本主義的傾向、すなわち国家による資本主義の抑制をともなう経済発展のあり方だ。アリギはその路線をスミスに読みこもうとし、スミスの新しいパラダイムをつくりあげ、それを現在の中国にあてはめようとした。
『北京のアダム・スミス』はそうした本として読めなくもない。

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