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ジョヴァンニ・アリギ『北京のアダム・スミス』短評 [本]

本書のテーマは次のようにまとめられる。世界資本主義システムにおけるアメリカのヘゲモニーは、いかにして終わりつつあるのか。それが終わろうとしているなら、中国の台頭はどのような影響をもたらすのか。そして、もしアメリカがヘゲモニーを失ったとしたら、そのあと世界はどんなふうになっていくのか。はたして西洋世界と非西洋世界の関係が対等になる時代はやってくるのか。それともアメリカと中国のあいだで激しい覇権争いが生じて、世界は混乱と暴力の時代へと流れていくのか。
タイトルのアダム・スミスにこだわる必要はない。とはいえ、おやという驚きはある。北京といえば、連想するのはふつうマルクスか毛沢東で、そこにスミスをはめこむのは違和感がないでもない。しかし、それを承知で、あえてこの経済学の始祖をもちだした背景には、従来の通説とはまったくちがう角度から、中国の発展を世界史のなかでとらえなおしてみたいという著者の並々ならぬ意欲が感じられる。そこにはスミスの予言、すなわち市場社会にもとづく「文明共和国」──さまざまな文明が共存する世界共和国──が実現するかもしれないという大きな夢が、はるかかなたに描かれている。
ここで理解されているスミスは、新自由主義者のとらえる市場原理主義者の像とは無縁である。だから、著者はあえて中国にスミスを接合することで、競争と規制緩和をお経のように唱える新自由主義者のイデオロギーを暗に批判したともいえる。スミスにとって、バランスのとれた市場社会を実現するには、穏やかな調整機能をはたす国家はなくてはならない存在だった。ところが資本主義は市場社会を常に創造的に破壊することによって、国家を巻きこみながら自己拡張し、国の内外に危機をもたらしていく。
ジェノヴァ=スペインからはじまって、オランダ、イギリス、アメリカにいたるまで、世界資本主義のヘゲモニーを競ってきた国々は、こうして資本と権力のあくなき蓄積をめざしてきた。ウオーラーステインの「世界システム論」は、中心国と周辺国を配置するなかで、近代世界資本主義の動きを整序した体系だったといえるだろう。しかし、そこで東アジアは常に受動的な周辺(あるいは半周辺)としてしか位置づけられてこなかった。本書はいわば東アジア、とりわけ中国を主体として、世界システムをとらえなおそうとする試みでもある。その際、アダム・スミスの考え方を正統に引き継いでいるのが中国だという大胆な仮説が、アメリカの学会を驚かせた。
いまや中国が経済的にも大国となり、好むと好まざるとにかかわらず中国製品が世界中を席巻していることは、ほとんどだれもがところだろう。著者は南宋以来の中国における市場社会の発展を追いながら、19世紀に東アジアで「産業革命」ならぬ「勤勉革命(industrious revolution)」が起こっていたことを実証し、良質な労働力が現在の中国の発展を支えているとする。19世紀後半から20世紀前半にかけては、東アジアの発展径路が西洋の径路に収斂されたが、20世紀後半にはそれが逆転して、西洋の径路が東アジアの径路に収斂されるようになったというのが、ここでの大きな見取り図である。
本書の欠陥は、中国の台頭を高く評価するあまりに社会主義の後始末がついていないことだと思われる。その結論は必ずしも楽観的ではない。これからやってくるのは、ひょっとしたら「暴力の加速する時代」であり、「世界規模のカオス」かもしれない、と著者は心の片隅で感じている。いずれにせよ、アリギの遺著となった本書が、前著『長い20世紀』と合わせて一読されるべき力作であることはまちがいない。

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