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神隠しの経験 [柳田国男の昭和]

《第203回》
 柳田国男のふるさと兵庫県福崎町田原村辻川は、姫路の北にあるちいさな集落で、福崎町の中央には市川が流れている。銀山で知られる生野(いくの)に端を発する市川が、重畳する山地のあいだをくだって、近郷の後輩、和辻哲郎の表現を借りれば、とっくりの首のように平野をつくる、その最初の出口に町は位置していた。辻川は市川の西岸にある。平野からは小高い緑の山々が見渡せた。
 村では南北に姫路から生野峠を越えて和田山に向かう但馬(たじま)街道と、東西に京都から下関に向かう中国街道(西国本街道)が交差していた。辻川という地名は、おそらくそのあたりに由来する。国男の生まれた年、但馬街道の拡張工事がはじまり、旧道は3年後に生野街道と名称を変える。大量かつ迅速に生野の鉱物資源を姫路の飾磨(しかま)港に運ぶことが期待されていた。
 辻川はひっそりした山里ではなく、開けた農村で、しかも交通の要衝でもあった。京、大坂、姫路、豊岡、津山などへの行き来は盛んで、文物や情報にはことかかなかっただろう。
 国男は医者兼儒者として身を立てていた父松岡操(約斎)と母たけの6男として1875年(明治8)に生まれた。柳田の姓を名乗るのは1901年(明治33)、信州飯田で代々藩士をしていた柳田家の養嗣子に迎えられてからである。養父となった柳田直平(なおひら)は、当時、大審院判事を務めており、国男はその4女、孝と結婚することが決まっていた。
 13歳で後にして以来、ほとんど戻ることのなかった故郷は、どんな場所だったのだろう。
 国男は何かにつけ、故郷の辻川について記し、また語っている。だから、ことさら『故郷七十年』だけが故郷の風景論なのではなく、柳田民俗学そのものが故郷の体験、とりわけ子ども時代の思い出を発出点にしているといってもよいくらいである。それでも八十翁の語る故郷には、揺れ動く振り子を支える軸のようなたしかさがしみついている。

〈諸国の旅を重ねた後にはじめて心づいてみると、わが村は日本にもめずらしい好いところであった。水にしたがう南北の風通しと日当たり、左右の丘陵の遠さと高さ、稲田によろしき穏やかな傾斜面、仮に瀬戸内海の豊かなる供給がなかったとしても、古人の愛して来り住むべき土地柄であった。繁栄の条件は昔から備わっている〉

「妹の力」に記した、こうしたふるさとへの思いは最晩年になっても変わることがなかった。
 播州には荒蕪地が多く、田は少ない。昔の人はため池をつくって、何とかして水田を開こうと努力した。そのなかで、辻川のある田原村は、確実に田ができる場所で、周辺はカヤの生い茂る荒れ地が広がっていた。
 その割に辻川がにぎやかだったのは、ここが交通の要衝となっていたからである。
 国男はこう語っている。

〈……辻川の街道の思い出には必ず魚売りたちが伴って想起される。魚じまの季節[魚が浜に押し寄せる春]には鯛売り、秋の季節には若狭ガレイ売りも村を訪れた。頭に籠をのせ、その中に十数枚ほどのカレイを扇型に並べた若狭ガレイ売りの「カレイいりまへんか」とふれ歩いた声がいまも耳の底によみがえってくるようである。
 八字髭の紳士を乗せた二人引きの人力車が北の方へ走ってゆくと、北の方からは山茶売りも下ってきた。……
 牛の背に幾把かの薪を載せて、薪売りも下ってきた。私はそれを真似て、村の犬クロを裏山に伴い、小型の薪をその背にくくりつけ、得意になって村へと降ってきた。それをかわいいとみたのであろうか、近所の嫗(おうな)が買い取ってくれたことがあった。
 猪や鹿売りも来て、街道をふれ歩いた。天秤の片方に一匹の鹿を、片方には猪の片股が下げられていた。そして道々、買い手の求めに応じて肉の一片を切り取り、計量器で計って売りさばいていくのであった〉

 街道には物売りだけではなく、ベニガラで染めたような赤い獄衣を着た囚人たちがぞろぞろ歩いていくこともあった。おそらく生野街道を整備する仕事に駆り出されたのだろう。演習のため姫路の鎮台から大勢の兵隊が村にやってきて、人家に泊まりこみ、泥靴のまま旧家の玄関を上がったこともある。
 自由民権運動の華やかなりしころ、酔っぱらいの壮士が国男の家の門前で大の字になり、何やらわめいていたのが恐ろしかった。仲間がなだめすかし、つれていこうとすると、その男は「自由の権だい」と何度もさけんだ。このころから、国男は受け売りの外国思想がきらいになった。
 すでに失われた風景にはちがいない。しかし、国男はこうした風景を何度も思い返し、最晩年までしっかり脳裏に刻みつけていた。
 川には、地元ではガタロ(河太郎)と呼ぶカッパ(河童)がいて、泳いでいる子どもが水死することがあった。ガタロに尻を抜かれるなと注意されたが、そのガタロがよく出るのが、駒ヶ岩の下の淵だった。
 国男はこう書いている。

〈市川の川っぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって[河川改修のためだろう]頭だけしか見えていないが、昔はずいぶん大きかった。高さ一丈[約3メートル]もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々(あおあお)した淵になっていた。そこで子どもがよく死ぬのである。私ももう少しで死にかかった経験がある。水が渦を巻いているので引き込まれるが、あわてないで少しじいっとしていると流れのまにまに身体が運ばれ浅瀬へ押し流されて浮かび上がることができる。そこであまりバタバタすると渦の底へ引きこまれてしまうのだった。鰻のたくさんとれるところで、枝釣りをよくしたものであった〉

 子ども時代の思い出を語る国男の口調は、いかにも楽しそうで、いきいきしている。
 川のほかに国男が近所の友だちとよく遊んだのが、家の裏手にある鈴の森神社だった。拝殿の右側にはヤマモモの木があって、実がなると子どもたちはそれをとって口に運んだが、国男は木に登ることさえ母に禁止されていたようである。母親はとくに食べ物には敏感で、神社で供される小豆飯さえ、食べないように厳命していた。
 鈴の森神社の婚礼で、国男は三三九度のお酌をする男役(男蝶)に年に二度も選ばれたことがある。これをつとめるのは5歳の男の子で、きちんと作法を守り、口上を述べなければならない。母は国男がこれをりっぱにこなしたのが自慢だった。
 神社から下ったところは崖になっていて、小川が流れ、沢ガニがいた。アカイワシと名前をつけた茎の赤くなる木があって、国男はその茎を刀代わりにしてよく遊んだ。ズズ玉(ジュズ玉)を首輪にしたことも覚えている。
 神社の南東にある薬師堂の軒下では、国男のかわいがっていた村の犬が子どもを産んだ。その「一種の臭気、あのにおいという以上に名前のつけようもない特別な香り」とともに、「熊」や「黒」をはじめとする村の犬たちの思い出がよみがえってくる。
 祖母がよく通っていた街道はずれの地蔵堂、街道を少し下ったところにある稲荷の森も忘れがたかった。
 辻川はそれ自体が開かれたちいさな世界だった。
 国男は父親の薫陶、母親の愛情をたっぷり受けて育った。8人生まれた子どものうち6番目とはいえ、すぐ上の2人が幼いときに相次いでなくなったためか、母親は子育てに少し神経質になっていた。
 国男にはきわだった特徴があった。からだは弱かったが、色白で「福助さん」と呼ばれるほど頭が大きく、物覚えがよくて利発だった。村の「神童」といってまちがいない。
 ところが、この「神童」は、もうひとつ奇妙な習癖にとりつかれていた。よく神隠しにあうのである。
 こう語っている。

〈私より3つ年下の弟が生まれる春先の少し前であったから、私の4つの年のことであった。産前の母はいくらかヒステリックになっていたのかもしれないが、私にちっともかまってくれなかった。あるとき私が昼寝からさめて、母に向かって「神戸に叔母さんがあるか」と何度も聞いたらしい。母が面倒くさいので「ああ、あるよ」と答えたところ、昼寝していた私が急に起き上がって外に出ていった。神戸に叔母なぞいなかったのに、何と思ったか私はそのままとぼとぼ歩きだして、小一里もある遠方へ行ってしまった〉

 畑仕事をしていた隣のおじさんが、たまたま声をかけてくれなかったら、そのまま行方不明になっていたかもしれない。
 神隠しにあったのは一度だけではない。すべてを語っていないが、有名な14歳のときの経験を含め、かぎりなくあったとみてよい。
 こんなできごとも語られている。

〈もう一つ、11歳の時に母や弟たちといっしょに一里くらいはなれた山へ茸を採りにいったときのことである。山向こうの裾の池の端にみなで休み、グミか何かを食べて、いざ帰ろうということになっていっしょに歩きだしたところ、どういうわけか、たぶん母親が道をまちがえたのかと思うが、山を一つ越えて反対側に引き返したつもりだったのに、山は越えずに斜めに歩いただけで、また元の池の端に出てしまっていた。私がよほどへんな顔をしていたとみえて、母が突然私の背中をがあんと叩きつけた。叩くなんてことは今までついぞなかったのに、そのときは私のへんな顔つきを見た拍子に背中をはっと叩いたのであろう。それっきりもう何も母は説明もせず、私も何も聞きもしないで、そのままにすごしてしまった〉

「神童」国男は、みずからのうちに「異界」をかかえていた。それはいったい何だったのだろうか。

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