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故郷からの出立 [柳田国男の昭和]

《第204回》
『故郷七十年』のなかで、柳田国男は冗談めかしながら「私のはじめての著書」について語っている。
 その書名は『竹馬余事』。父の約斎(操)が編集し、名づけた。国男が11歳から13歳にかけてつくった詩文を集めたものである。その内訳は五言絶句が20首、七言絶句が98首、五言律詩が2首、七言律詩が2首、和歌が61首、それに文の部と、付録に「花鳥春秋伝」がついている。
 数えの11歳から13歳といえば、いまなら小学校の上級生、当時の国男は高等小学校の卒業前後だった。
 本人は手本どおりにつくった詩だから、「だれでもつくれる価値のないもの」だと謙遜するが、なかなかどうして、いまのわれわれからみると、よくこんな詩が詠めると感嘆するほかない。
 とくに漢詩はわれわれの世代にはむずかしい。そこで、大室幹雄が名著『ふくろうと蝸牛』で紹介している詩を孫引きし、そのいくつかを味わってみることにしよう。訓読は省略し、代わりにぼくなりの訳をつけた。
 たとえば「秋日偶成」。

  孤鴉空啼去  鴉が一羽鳴き飛んでいくと
  夕陽紅葉飄  落陽にもみじが照り落ちる
  柴門人到少  粗末な家は訪れる人もなく
  静掃満庭痕  庭に残るは掃かれた跡だけ

 また「訪隠者不遇」(隠者を訪ねて会わず)。

  求棲暮禽飛  ねぐらを求め夕の鳥が飛ぶ
  山荘塵事稀  この山荘はまず俗事と無縁
  訪高人不遇  高潔な隠者を訪ねて会えず
  閑門題鳳帰  門に鳳と記して戻るもよし

 いずれもお手本があり、「竹林の七賢」にもとづく典拠もあるのだが、なかなかりっぱなものである。
 初恋と題する歌もある。

  わが恋は
  のちせの山の藤の花
  まつにかかれる命なりけり

 恋に恋するようなたぐいだが、小学生の高学年ともなると、藤の花と松にかけて、思い人の到来を待つ恋の歌も詠めたのである。
『故郷七十年』のなかで、八十翁はさらにこう語っている。

〈もう一つこの『竹馬余事』の中で面白いのは、そのころ『昔々春秋』といって大坂の中井履軒(りけん)、つまり中井竹山(ちくざん)の弟の方が、文章の稽古に支那の『春秋』を真似して、昔話の猿蟹合戦やおとぎ話の類を、一々『春秋』のような書き方をして出したものがあった。私はそのころ生意気だったらしく、これを読んで大変感化を受け、自分も真似して「花鳥春秋」というものを書いたのである。これも明治18年のころだったと思う。後になってみれば、なぜこんなものを書いたのだろうと思われるが、これが私の文章を作るということのまず最初の仕事だったのである〉

 中井履軒は江戸後期、大坂の儒者、兄、竹山とともに懐徳堂の学風を支えた。国男が履軒の著に接したのは数えで11歳の年、一家の移転先となった北条の高等小学校を卒業し、辻川の旧庄屋で蔵書家の三木家にあずけられたときである。いずれにせよ、このころ国男は大坂の儒学者が『春秋左氏伝』を模して、子ども向きに漢文で記した戯文をすらすら判読できたことになる。
 国男に学芸の素養をそなえさせたのは、明治政府が全国に設置した小学校ではない。儒者でもあった父操と母たけだったことはまちがいない。自宅には『蒙求和解』などの百科全書数冊と、馬琴の『南総里見八犬伝』が何冊かくらいしかなく、本は蔵書家から借りるものと相場が決まっていた。それでも母は『大学』『中庸』程度はそらでいえたし、10歳くらいまでに国男は、家にわずかに残る蔵書に加え、『論語』はいうにおろか、さまざまな漢籍や和歌の本、国学の本にすでに目を通していた。
 神童と呼ばれたのもゆえなしとはしない。
 問題なのは松岡家の家産が傾いていたことである。その原因は、江戸の教養に染まっていた天保生まれの父が、明治の新時代に対応できなかったからだといってよい。
 父の操(賢次、約斎)、は姫路の藩校で学んだ儒者でもあり、医者でもあった。1863年(文久3)から70年(明治3)までは、姫路の町学校、熊川舎(ゆうせんしゃ)[熊川は元塩町の雅名]の舎監をしていたが、その後、廃藩置県とともに職を辞し、辻川に戻り読書に明け暮れていた。神主をしていたこともあるというから、国学にも通じていたのだろう。
 長男の鼎(かなえ)は姫路の師範学校を出て、小学校の校長となったが、家との確執もあり、まもなく職を辞し、医者として身を立てるため上京した。次男の通泰は地元播州の医科、井上家に養子にはいり、東京大学で医学を学んだ。
 国男が小学校に行き、ふたりの兄が上京したころ、松岡家の家計は火の車だったといってよい。父は鳥取県赤碕町(現琴浦町)の私塾に招かれ、漢学を教えたこともあるが、すぐ神経性にかかり、村に戻ってきて、一時、座敷牢にいれられた。松岡家には、国男の下に静雄と輝夫(のちの映丘)も生まれていたから、気丈夫とはいえ、母親の苦労は並たいていではなかっただろう。
 母たけについて、国男はこう話している。

〈母は私ら兄弟5人を育て上げて世に出すのに一生懸命であった。その気疲れもあって、かなり早く年をとり、一時ヒステリー気味になったことさえあった。晩年の母しか知らない人たちからは、いかにも気むずかしい人柄であったようにみられる傾きがあった。しかし私の家にとっては大変な功労者で、世間知らずの父に仕えながら、私たちを東京に出して勉強させてくれた。ことに私自身は小さいときから母の腰巾着で、播州でいうバイクソというのにぴったりあてはまる立場におかれていた。バイというのは、海からとれる長い螺貝(つぶがい)のことで、その中身の最後にくっついていて、なかなか母貝から外へ出ない柔らかい尻尾の部分をバイクソというのである〉

 父の沈潜によって家計の苦しいなか、おそらく母は、頭がずばぬけてよい国男の将来について思い悩んだにちがいない。村の昌文小学校を9歳で卒業したあと、実家を頼って、国男を北条の高等小学校に入学させたのも、何とか国男に進学の道を切り開いてやりたかったからである。一家はけっきょく辻川で暮らしていけなくなり、母の実家がある北条に身を寄せるのだが、そこで困ったのは2年で高等小学校を卒業した国男の今後をどうするかであった。中学に入れる余裕はなかった。それでも国男に勉強させたかった母は、国男を辻川の旧家、三木家の奥座敷にある文庫に送りこむことにする。そこには先代の遺した膨大な蔵書が眠っていた。ここで国男は終日の読書によって文学の素養を身につける「第一の乱読期」を迎えるのである。
 こう話している。

〈客でもないかぎりはめったに表へは出ず、何をしてござるか知らぬような日が多かったが、私は裏座敷の2階の本箱のあいだに入っておとなしく本を立ち読みしているときには、妙に段梯子の下に来て、声をかけられることが何度かあった。細かくしまいまで読み通したい本があったらこれをそっくり持って降りることも許されるのだが、名も聞かぬような本があまりに多いのでつい目移りがして次々と本箱の蓋をとる。中には謡曲の本だの草双紙だの、用でもないのにひっかかって半日をつぶしてしまう日も折にはあった。これほど親切な心づかいにもかかわらず、私の乱読の癖はこのころに養われて、70年後の今日もまだ少し残っている〉

 先は見えなかった。おそらく、このまま両親の影響圏内にとどまっていたら、国男はその引力によって空中分解してしまったかもしれない。それを救ったのが、すでに上京していたふたりの兄の存在だった。
 おそらく国男が時折、神隠しのような状態におちいったのは、本人の気質も手伝っていたにせよ、みずからの将来と存在そのものに対する不安と閉塞感が、ただならぬ異界を招き寄せたからである。それでも国男の場合は、からだが弱かったからと本人は弁解しているものの、おそらく家庭の事情からすぐ中学に行けなかったことが、村の素封家の手助けもあって、「神童」に自由な読書の機会をあたえる結果になった。
 両親の干渉と、型にはまった教育からまぬがれた国男は、文庫蔵のなかに沈深し、みずからをかたちづくった。それが故郷からの出立へとかれを導くのである。

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