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官僚への道 [柳田国男の昭和]

《第210回》

 柳田国男晩年の聞き書き『故郷七十年』をめぐって、かれの人生の転換点となったできごとを感想をまじえながら述べてきた。
 故郷を出てからの七十年を回顧するという性格もあるかもしれないが、この著書で国男は、なぜ大学を出てから官吏の道を選んだのか、しかもどちらかというと二流とみられていた農商務省にはいったのかを、あまりくわしく述べていない。
 その語り口はそっけないほどだ。ちょっと引用してみる。

〈……私は数学の素養が十分でないので、農学をやることにした。両親も亡くなり、もう田舎に住んでもかまわないくらいのつもりであった。そこへ松崎蔵之助という先生が、ヨーロッパ留学から帰り、農政学(アグラール・ポリティク)ということを伝え、東京大学で講義をしておられた。新渡戸[稲造]先生が東大へ来る以前の話だが、そんなことから、私も農村の問題を研究してみようかということになり、卒業して農商務省の農政局農政課というところに入ったのである〉

 さりげなく、そう話しているが、歌とのわかれを決意した国男は、大学の最終学年にいたって、おそらく必死で農政学を学んだはずである。農商務省もまたそのころ逸材を求めていた。
 こうも話している。

〈農商務省には、私の大学にいたころまで、高等官は一人もいず、局長の下はみな技師で、一人の事務官もいなかった。そこへちょうど産業組合とか農会法とかいう農業関係の法律が一時にたくさん出たため、岡野敬次郎さんの口利きで、われわれ法学士が4、5人も同省へ入った。月給が違うというようなことがあり、大学で特待生だった松本烝治だけが50円、私が45円で、他の人たちが40円というような扱いを受けた。
 そのころ私は柳田家に入る気持ちになっていた。両親を失って寂しい思いをしていた私を柳田家に推薦してくださったのは歌人として知られていた松波遊山(資之)翁であった〉

 こと細かく述べるのはできるだけ避けるとしても、いくつか説明が必要だろう。
 明治憲法下の官吏は、高等官(親任官、勅任官、奏任官)とそれ以外の一般官吏(判任官)の階級区別があり、さらにその下に雇員や嘱託がいた。内閣総理大臣や国務大臣にあたる親任官、法制局長官や帝国大学総長、貴族院書記官長にあたる勅任官は別として、高等文官試験に合格した者は奏任官となり、普通試験に合格した者は判任官となった。
 国男は1900年(明治33)7月に農商務省にはいり、同年11月に高等文官試験に合格し、法制局参事官、同書記官など(宮内書記官、内閣書記官文書課長なども兼任)をへて、最終的に勅任官の貴族院書記官長となったのだから、19年にわたる官僚生活において、まずはエリートコースを歩んだとみてよい。
 国男が東京大学で農政学を学んだ松崎蔵之助は、国男より7歳ほど年上でドイツ系経済学(社会政策学)を奉じており、のちに東京高等商業学校(現一橋大学)校長も務めている。同じく松崎に学んだ河上肇は、国男の大学2年後輩にあたる。
 岡野敬次郎は東大教授として商法を教えていたが、同時に農商務省参事官を務めており、国男はこの岡野の推薦で同省に入省するのである。岡野はのちに文部大臣や農商務大臣を務めるけれども、その経歴をみると、ほぼ一貫して国男の上司だったといってもよいだろう。
 産業組合法は1900年2月に成立したばかりで、その前年に成立した農会法とあわせて、全国的な農会をつくって、日本の農業の改良発展をめざすことを目的としていた。産業組合法の制定を促進したのは山県有朋の配下、平田東助であり、その本来のねらいは、兵力の供給源ともなる自作農を救済することだったとされる。
 そして国男の同期には、第一高等学校以来の終生の親友で、戦後、憲法試案をつくったことで知られる松本烝治がいた。
 国男は役所勤めをするようになってからすぐに、歌の師匠筋にあたる松波遊山の肝いりで柳田家の養嗣子となることが決まった。柳田家にはいる話は、すでに1年ほど前から進んでおり、国男が官吏の道を選ぶことはすでに既定路線になっていたとみてよいだろう。
 役所勤めをはじめた当座については、こう語っている。

〈市ヶ谷加賀町にあった養家から、毎日、[農商務省のあった]木挽町[現在の東銀座あたり]の役所に通ったわけで、まだ電車もなく、市ヶ谷見附まで出ると人力車の溜まりがあったので、そこから俥(くるま)に乗って行った。月給の半分は車代に、残る半分は小遣いにという、思えば気楽な身分であった〉

 養家ではだいじにされていたのだろう。なにせ「末は博士か大臣か」の学士さまであり、娘が成人したあかつきには、だいじな婿になる人なのだ。
 さらに農商務省にはいって直後から、国男は私立大学で農政学を教えはじめていた。

〈私の大学を出たころは、たいていどこかの私立大学へ講義に行かされたものである。まあ一つの関門であった。私も明治34年[1901]から5年[1902]にかけて早稲田へ出かけていった。また35年から日露戦争の前まで、専修大学に行っていたこともある。科目は農業政策であった。そのずっと後に慶応に招かれて民俗学を教えたこともある〉

 現在では東大を出たからといって、すぐ早稲田の講師になるとはちょっと考えられない。だが、当時はこうしたことがごくふつうにおこなわれていた。
 詳しくいうと、こうである。
 農商務省にはいってからも、国男は松崎蔵之助を指導教官として1905年まで大学院に籍を置き、1901年9月から東京専門学校(早稲田大学)で農政学を教えはじめる。このときの生徒が大山郁夫(のち早大教授、労農党委員長)、永井柳太郎(のち衆院議員)、吉江孤雁(喬松、作家)らだった。朝日新聞時代に、国男が論説委員として無産政党応援の社説を書くのは、かつての教え子だった大山郁夫を念頭に置いていたのかもしれない。
 それはともかく、同じく1902年9月からは専修学校(専修大学)、さらに1907年(明治40)から中央大学、1910年から法政大学で、国男は農業政策学を教えた。
 これらの講義録は『農政学』(1902〜1905、早稲田大学出版部)、『農業政策学』(1902〜03、専修大学講義録)『農業政策』(中央大学講義録)などの単行本として、いまも「定本」や「全集」に収録されており、そこからは国男のさっそうとした講義ぶりが伝わってくるような気がする。
 そして、これに加えて、もっとも初期の著作『最新産業組合通解』(1902、大日本実業学会)、全国各地講演記録の『時代ト農政』(1910、実業之日本社)などをみると、国男がなぜ開明的な国家官僚として農政にたずさわろうとし、それがどうして挫折を余儀なくされるのかが、そこはかとなくあきらかになってくるのである。
 いまはそれを語るべきかもしれない。

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狂四郎

こんにちわ、僕は今の今まで、國男は競争率が低かったので農商務省に入ったんだとばかり思っていましたが、婿入りを決意したのも、苦労して育っているからこその、決断だと思っていました、自分で世渡りが下手と言う割りにはかなり要領よく立ち回っていたのではないかと勝手に解釈しておりました、どんなもんなんですかね、そこいら辺の事情は?
by 狂四郎 (2011-09-29 09:40) 

だいだらぼっち

狂四郎さま。いつも丁寧にお読みいただき、感謝しております。国男が農商務省にはいったのは岡野敬次郎に引っ張られたのはまちがいありません。高等文官試験は入省したあとに受けています。そもそも東大法科卒業生は明治26年(1893)まで無試験で高等官になることができました。国男の場合は農政への思いが強かったのだと思います。高等文官試験に受かってから1年少しで国男は法制局参事官になりますが、そのときも上司は岡野でした。しかし、法制局に移ってからも、国男は農政から完全に離れることはありませんでした。官僚としては不器用だったかもしれませんが、たしかに筋は通っていたような気がします。
by だいだらぼっち (2011-10-04 15:05) 

狂四郎

有難うございます、僕は元々目的が日本の特異体質にあったもので、祖父の事はかなり大まかにしか捉えていませんでした、だいだらぼっち様のお陰でかなり理解が深まりました御礼申し上げます。
by 狂四郎 (2011-10-04 16:32) 

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