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農政学講義 [柳田国男の昭和]

《連載第211回》
 さまざまな大学における柳田国男の農政学講義をすべて紹介するわけにもいかない。ここではとりあえず1901年から翌年にかけて東京専門学校(1902年に早稲田大学と改称)でおこなわれた講義をまとめた『農政学』を手引きとして、当時、経国済民のこころざしをいだいていた国男が、開明官僚として、農業政策にどのような思いをこめていたかを紹介することにしよう。
 あとからふり返ると不思議なくらいだが、このころ国男は国家、とりわけ国家機関というものに全幅の信頼を置いていたようにみえる。その国家はあたかもプラトンが唱えた理想国家のごとき存在であり、またみずから官僚として実務を担う立脚点でもあった。国男は内務官僚や軍人のように、国家を統治対象あるいは戦争マシーンとしてとらえてはいない。国家とは国民の幸福を実現するための実践的指導機関というのが、かれの基本的なとらえ方だったはずである。
 ほぼ100年前の『農政学』というテキストは文語体でまとめられているため、現代のわれわれにはとても読みづらい。そこで、なるべくその原文を直接引用せず、現代文に直してなるべく要旨のみを取りだすことにするが、その調子だけでも知ってもらうために、最初の部分を原文で示しておきたい。
 それは国男が、一国の経済政策は、階級間の利益争いから「超然独立」して、決されなければいけないとしている部分だ。
 こう述べている。

〈一国の経済政策はこれら階級の利益争闘よりは常に超然独立して、別に自ら決する根拠を有せざるべからず、何とならば国家がその存立によりて代表し、かつ利益を防衛すべき人民は、現時に存在するもののみには非ず、後世万々年の間に出産すべき国民も、またこれと共に集合して国家を構成するものなればなり。語を代えて言はば利益の総計は即ち公益には非ざればなり〉

 入省したての若手官僚でありながらも毅然とした国男らしい見解といわねばならない。エリート臭ふんぷんといえば、そうかもしれない。とはいえ、国は長期的な視野に立ちながら、現在および将来の国民全体に責任をもたねばならないという主張は、むしろ青年客気を感じさせて、ほほえましい。国は力のある資本家や地主の意見だけに動かされてはならないのだ。
 農政学を論じる理由について、国男はおよそ次のように述べている。

《経済政策学はほんらい個々の分野にわけるべきではなく、一体として論じられねばならないのだが、あえて農業政策学すなわち農政学を独立して論じるのは、農業が国の経済政策のなかで主要な地位を占めているからである。だからといって、私は「農業国本論」を唱えるものではない。現在は農業に加えて商工が国民全体の生業となっており、農業以外はなくしてしまえという理屈は成り立たない。
 イギリスではアダム・スミスの労働本位説と分業論によって、商工立国論が主流となり、農産物は海外から輸入すればよいという考え方が強くなった。しかし、それでは農村地帯の経済力は衰退してしまう。逆に農業だけを重視する政策が何を招くかも明らかだろう。人口増や需要増が農業生産によってのみまかなえるわけではないからである。国家の経済的独立が必要なことはいうまでもないが、一国全体の発達は、商工だけ、あるいは農だけの片寄った繁栄から求めることはできない》

 農政学といえば、農業国本論すなわち農本主義を思い浮かべるかもしれないが、国男はそうした反動的な立場をとらなかった。むしろ国の経済政策全体のなかに農業の発展を位置づけるという、きわめてバランスのとれた考え方を示している。もうひとつの特徴は、国男が自由放任主義と考えられていたアダム・スミス流の発想を避け、経済を健全に成長させるには積極的な国家の干渉や政府の保護を必要とするという当時のドイツ流経済学を支持していることである。
 国家は「永遠の利害を通算する」だけでなく、進んでみずからその判断を実行する能力をもつという国男の考え方は、官僚的、保守的だといってまちがいないが、当時の日本においては開明的でもある。のちにstateとしての国からnationとしてのくにへと思想的根拠を移行させる国男に、こういう開明官僚としての側面があったことは、けっして無視できないだろう。
 講義をはじめるにあたって、国男はまず農業とは「比較的多く土地を要する生産行為」であって、その特徴は人の力をもって天然物の増殖をはかる点にあると規定している。そして、農業は安定した職業と思われているかもしれないが、自然の影響を受けやすく、市場価格の変動や外国品の輸入などもあって、その経営は一般企業と同じくらいたいへんだと指摘するのを忘れていない。
 さらに国男は、昔、農は人がみずからを養うための生活そのものにほかならなかったが、明治にはいってからは完全にひとつの生産業になったと指摘している。こういう認識も、かれが農本主義者とは一線を画する現実家であったことを示す指標となるだろう。
 みずからは耕さない地主と、土地持ちの自作農、そして借地農(小作)が存在する現実も忘れていない。当時、日本では人口の6割を農民が占めていた。しかし、農民は漁業や運送業、商業を営むこともあるから、兼業の多いことが日本の特徴だとも述べている。耕地面積は国土総面積の18%にすぎず、この割合はフランス、ドイツ、イギリスに比べても少なく、一農家が経営する田畑面積は平均で1町歩足らずだ、と日本の農業の置かれた厳しい現実についても、忌憚のない認識を示している。
 この講義録を読むと、当時は土地公有論に関する議論がさかんだったことがわかる。国男ははっきりと土地公有論を否定しているが、同じ公有論といっても、ヘンリー・ジョージ、アルフレッド・ウォレス、社会主義とでは立場が異なっており、講義ではそれぞれを詳しく検討しているところがおもしろい。
 ヘンリー・ジョージは、そもそも神から与えられた土地を人類の一部が独占するのは正義に反しているとして、土地から生ずる収入を公のものとすべきだと主張した。だが、具体策としては、かれの説は一種の税制改革論で、税制を土地に一本化し、それによって金持ちの不労所得を排除しようとした。しかし、国男は土地だけに課税するのは現実的に無理ではないかとみていた。
 一方、博物学者としても知られるウォレスの主張は、国家が私有地を買い上げて、土地を国有化し、公吏がこれを経営して、人民を雇用して生産にあたらせようとするもの。しかし、これは地主が個人ではなく国家になったというだけで、国家による干渉のなかで、はたして人びとが喜んで働くだろうかと疑問を呈している。さらに社会主義は土地を強制的に国有化しようとするものだが、こうした暴力的なやり方を国男が好まなかったのはいうまでもない。
 だからといって、国男が明治以降の土地所有制度のあり方に疑問をもっていなかったわけではない。土地がみずから耕作しない地主のもとにあるのは、たしかにおもしろくない現象だと述べている。耕地の所有権はなるべく農業者の手に属するよう策を立てるべきであって、それさえできれば私有制を変革する必要はないというのが、かれの考え方だった。
 その一方で、土地の細分化を防がなければいけないとも論じていた。その意見を要約すると、おそらく次のようになる。

《私有財産を個人は自由に処分できるとはいえ、土地に関しては時に有害または危険な事態を招く場合もある。土地の分割に関して現在特に規定はないが、過小農、兼業農の増加が農業の進歩を妨げるのを避けるため、分割に対する法的な制限をもうけ、中農の養成をはからねばならない。相続などに際しての分割も、ある程度の制限をしなければならない。そうでないと、農業者が職業として自立できなくなってくる》

 農地に関しては単独相続制(家督相続)を認めつつ、土地が細分化されないようにし、中農を中心として、農業の発展をはかるというのが国男の方向性だったとみてよいだろう。ただし小作を切り捨ててよいというわけではない。国や地方、寺社が所有している土地を農地として小作にわけるという方策も検討しており、物納の地代を金納にして、小作の生活改善をはかるという考え方も示している。ともあれ、当時の日本においては、地主・小作関係が錯綜するなか、一農家あたりの耕地面積が少なすぎるという問題を解消するのは容易なことではなかったのである。
『農政学』講義は、その中心テーマのひとつである農業生産増進策、すなわち生産政策へと移っている。
 人口が急激に増えていた明治末期の時点で、すでに日本は多くの食料(および原材料)を輸入に頼っていたことがわかる。国男自身も、国内で生産できないものはともかく、少なくとも食料穀物については補充できるはずだと述べている。食料増産政策は明治政府にとっても大きな課題だった。
 食料増産政策にたいする国男の基本的な姿勢は、次のような発言からも見て取ることができる。

《一国の生産総額の増加は、個人所得の増加につながる。したがって、個人がそれぞれ生産を改良することができれば、国の生産政策はその目的を達することができるのである。だとするなら、経済政策は開発誘導を主眼とし、教育的方法をもちいて、自助にいたらしめるのがよい。警察的な命令、あるいは露骨な奨励金の制度は効少なく弊多いもので、極力避けるべきだ》

 教育的方法による生産改良をめざしていたのである。
 具体的な改良策として国男が挙げているのは、開墾、機械の応用(必要な資金の低利融資)、耕地整理、灌漑排水事業、風水害への予防措置、農業金融、収穫物の調整や販売方法の改善、農業技術の開発促進などである。
 古い慣習をあらため、農業を近代化することが大きな目標だった。国男の考え方に、こういう合理的な一面があることは知っておいてもよい。
 国の任務は「人びとの迷を去り、誤りを正し、ただ個人の力およばぬ部分についてのみ、助力を与えること」だと考えていた。基本は補助金ではなく、あくまでも教育である。
 明治末期にはすでに農科大学ができ、各地に農学校が広がっていたが、国男はそれだけではじゅうぶんではなく、小学校でもある程度の農業知識を身につけさせなくてはならないと主張している。またドイツと同じように、農学校の教員が巡回教師となって、実際家の意見、判断をあおぎながら、各地で講習をおこなうような仕組みもあってよいのではないかと提案している。
 そして期待したのが、全国の農業者をたばねる「農会」の役割であり、さらに現場に近い「組合」の結成促進である。
 こんなふうに述べている。

《耕地整理組合、水利組合、重要物産同業組合、産業組合などがもたらす教育効果は無視できない。ことに産業組合は、その起源を小農者、または労働者の自助的合同に有し、組合の活動によって、組合員の地位の維持発達をめざすものであって、道義面・実利面の影響はきわめて大きい。全国の小農がこの制度のよさを理解して、これを採用するよう、国の補助によってこれを誘致することも必要になってくる》

 農政官僚として国男が情熱をもって取り組んだのが、「小農者、または労働者(小作)の自助的合同」による「産業組合」の結成促進であったことはよく知られているが、これについては『最新産業組合通解』を紹介するときに、あらためて紹介することにしよう。
『農政学』講義は生産政策につづいて分配政策を論じることによって、しめくくられている。そして、いわば社会正義の実現をめざす分配政策が含まれていることが柳田農政学の大きな特徴ともいえるのである。
 競争社会が進展するなかで、なぜ分配政策が必要なのかについて、国男はこんなふうに述べている。

《自由競争のもとでは、人は急激に零落し、また急激に富を増加させる。集積された資本の力は、自由契約の名のもとで、他の資本なき人民を圧迫する場合がある。かくして不当なる放任は、不当なる干渉よりも多く嫌悪されることになる。とりわけ、存立あたわざる階級の人民を生じ、かれらが窮乏困憊している場合は問題を見逃すわけにはいかない》

 国男は明治以降、世界の趨勢に応じて、世の中が変わったことを認めている。農業についても、その目的はかつてのように単に各自が生活をするためではなく、金銭収入をめざすなりわいへと変貌した。いわば商業法則と無関係な農業はなくなってしまったのだ。土地の売買は自由となり、地租は金納となり、作物の制限はなくなり、市場は国内だけではなく海外にまで広がるようになった。その代わり、農業は外国との競争に堪え、市価の動揺に一喜一憂し、生産方法を変え、作物の種類を改める工夫をこらさねばならなくなった。
 そのなかで、何が起きているのか。

《農業政策では貧民問題の解決が大きな課題となる。日本では賃金労働者より貧しい多数の独立労働者がおり、工業、農業、漁業などにおける小生産者の地位は厳しいものがある。農業においては、小作農や一部の自作農が、その占有する土地が狭小で、ほとんど資本と名づけるものをもたず、過度な労働のみで農業をいとなんでいる。みなかろうじて厳しい生計を支え、他を顧みるいとまがないのは当然で、そこから抜けだそうとして、都会に移り住み、また海外への出稼ぎを希望する者が増えるのもいたしかたないのかもしれない。しかし、わが国の細小農を助けて、劣悪な地位を脱出させるために、分配政策の研究をするのはとうぜんのことである》

 簡単に答えはでていない。とはいえ、自由競争のもとで経済格差が生じ、多くの民衆が貧窮に苦しんでいる以上、それを是正するための国家による何らかの社会政策(分配政策)が必要だと考えていた。
 国にはそれができるはずだ。その思いが国男に農政官僚への道を歩ませたのであり、またそれが官僚の世界では躓きの石ともなっていくことを、かれはまだ知らないでいる。

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