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『赤紙と徴兵』(吉田敏浩著)をめぐって [本]

きのうは70年前に太平洋戦争がはじまった日です。
そこでこの本を読んでみました。
資料143.jpg
赤紙とは旧憲法(明治憲法)時代の召集令状のことです。
この時代、男子の国民には兵役の義務(17歳から40歳まで)が課せられていました。
男子は20歳になると徴兵検査を受けなければなりませんでした。
市町村の役場では、かつて「兵事係」という係があって、兵役に関する事務を取り扱っていました。
敗戦直後、軍の命令によって、兵事記録は日本の津々浦々にわたって、すべて焼却されましたが、たまたまある村の兵事係が当時の記録をひそかに保管していたのです。
この本は、その記録をもとに、赤紙による徴兵の実態を明らかにしたノンフィクションです。
読み終わったあと震えがとまらない、そんな本です。
徴兵検査はどんな手順で実施されたのでしょう。
市町村では「壮丁人員表」がつくられます。
つまり満二十歳に達した男子の数が把握され、これが各道府県をへて陸軍に報告されるわけです。
太平洋戦争がはじまった1941(昭和16)年の壮丁人員、すなわち徴兵検査対象者は全国で95万8945人でした。
こうして「徴兵検査通達書」が該当者に交付されます。
どこで暮らしていようと、この通達書は否応なく送られてきます。
徴兵検査のおこなわれる場所は本籍地です。
身体検査では体格と健康状態によって対象者が甲乙丙丁にランク分けされます。
そして甲種合格なら現役兵(一部補充兵)、乙種なら補充兵、丙種なら国民兵、丁種なら兵役免除となります。
補充兵とは戦時の徴集者、国民兵は必要に応じての徴集者のことですね。
軍は毎年の予算と同じように、あらかじめ毎年の徴兵人数を決めています。
それに応じて、「現役兵」が甲種と乙種のなかから抽選で選ばれるわけです。
現役兵というのは、平時から軍務につく兵隊のことですね。
こうして現役兵に選ばれた青年は、役場で軍からの「現役兵証書」を受け、入営することになります。
現役の期間は、陸軍なら2年、海軍なら3年で、その後は予備役に編入され、これまでの仕事に復帰します。
著者はこう書いています。
〈該当者を選び出し、個人情報を把握し、体の隅々まで調べ、選別し、等級付ける。それが毎年、兵役法施行令・施行規則に基づき全国共通で、精密な機械のように繰り返される。……ベルトコンベアに乗せられた物のように、多くの人間が日常生活から切り離されて、軍律に縛られた時空間に送り込まれる。場合によっては死が待つ場所、戦場へと投げ込まれる。そのシステムから逃れようとする者には「非国民」のレッテルが貼られ、執拗な追跡と処罰の手が延びる〉
徴兵検査から逃げることは不可能でした。
ぼくはこの本で、現役兵と召集兵が別だということをはじめて知りました。
現役兵は徴兵検査によって選抜された兵のことで、毎年軍の必要に応じて徴兵数が決められていました。
これに対し、召集兵というのはそれ以外(予備役も含む)の徴兵検査合格者のなかから軍務につくよう命じられた者をいいます。
その命令書が、いわゆる「赤紙」です。
「赤紙」、すなわち召集令状はどのような手続きで配られたのでしょうか。
戦争にあたって必要な動員数を決定するのは陸軍参謀本部です(海軍は軍令部)。
動員令は天皇の勅裁をへたあと、陸軍大臣から師団長、連隊区司令官、さらには市長、警察署長、町村長へと下達され、最後に赤紙が各役所の兵事係(およびその使者に選ばれた青年団員)から該当の応召員に配られていきます。
天皇の勅裁を受け、動員令が下されてから実際に赤紙が届くまでは2日もかからなかったというのは驚きです。
「膨大かつ緻密な兵事書類に基づいて、用意周到に築かれた動員・召集システム」が最初からできあがっていたのです。
そして赤紙を受け取った若者は、翌日か翌々日には召集部隊の置かれた兵営の門をくぐらねばなりませんでした。
軍はどのように兵力の潜在性を見きわめ、召集の人選をしていたのでしょう。
2年間(海軍の場合3年間)現役を務めたあと、いったん軍務を離れた在郷軍人については、その氏名、年齢、住所、職業、健康状態、特有技能などがつねに把握されており、在郷軍人は市町村に「在郷軍人身上申告書」を提出することを義務づけられていました。
軍が執拗に在郷軍人の個人情報を集めたのは、軍事上の必要性によって適材適所に人員を配置しなければならなかったからです。
〈歩兵は足が丈夫で脚力があり難行軍などに耐え得る者、戦車兵は耳がよくて腕などの筋肉の力が強くて冷静沈着かつ動作も敏捷な者、山砲兵は脚力があり腕力なども強い者、衛生兵は患者に対して暖かく接することができる者、電信兵は耳がよくて話し方もはっきりしている者……〉
軍がここまでこまかく個人の状況を把握しようとしているのを知ると、おどろくほかありません。
必要とされたのは戦闘能力だけではありません。
たとえば──
〈軍服の縫製、軍靴の修理、兵員・物資輸送の自動車運転、発動機の操作、軍馬の鞍作りと修理、兵器や機械の修理のための鍛冶・鋳造・旋盤、架橋・道路工事や陣地構築のための木工・土木・建築・測量、兵員・物資輸送のための鉄道建設・列車運転、電気、通信、写真撮影・現像……〉
ほかに医者や獣医、ラッパ手も見つけなければいけませんでした。
軍が動くというのはそういうことなのです。
軍はそういう「特有技能」をもつ人材を鵜の目鷹の目で求めていました。
つまり軍は「動員計画」にもとづいて、常に適材適所を考え、市町村から挙げられた兵事関係情報をもとに、予備役を含め徴兵検査合格者のなかから、召集の人選をおこない、「赤紙」を出していたことになります。
ただし、最初から召集猶予者、つまり召集の対象外とされていた者もいます。
それは高級官僚、天皇の侍従、侍医、外交官、帝国議会議員、警察署長、陸海軍機関の職員や職工、市町村の兵事係、軍需産業で働く専門技術者と職工、鉄道員と船員、通信技術者、国民学校の一部教員などです。
そうした制度が存在することは極秘にされていました。
以上、赤紙と徴兵の仕組みだけを追ってきましたが、よく読むと本書で著者がえがきたかったのは、ある兵事係を通してみた戦時の村の光景だったのかもしれません。
ぜひ映画化して、若い人にもみてほしいテーマです。
「坂の上の雲」や「山本五十六」より、きっといい作品になるはずです。
〈陸軍は、満州事変の起きた1931(昭和6)年に17個師団約20万人だった兵力が、45(昭和20)年の敗戦時には169個師団(歩兵師団のみで、ほかに4個戦車師団など)約547万人に膨れ上がっていた。海軍も、昭和6年に約7万8000人だった兵力が、昭和20年の敗戦時には約169万人にも達していた〉
赤紙一枚で、だれもが兵隊にとられた時代。
その背後には、個人や家族の状況をくまなく把握する国家の情報網が広がっていました。
それは、ひょっとしたら、いまも……。

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symplexus

「赤紙」を受け取った当時の国民の側の反応はいろいろだったようです.
   このような戦時システムの問題点を喝破するためには,
多様な個というものを前提とした一種の対話が必要だったはずですが,
  国家全体の危機を声高に主張する非常時体制化では
   それは望むべくもなかったのでしょう.

 父に赤紙が来た時の母の反応は幼かった僕には記憶に無いのですが
「おめでとう」という何人かの親戚に対して,生涯消えない深い不信,
 恨みのようなものが残ったようです.

 それからしばらくして練兵場の父の慰問に出かけたのですが,
この世に絶対的上官という問答無用の存在が有ることが
 初めて僕の眼前に登場したことを覚えています.
by symplexus (2011-12-09 10:45) 

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