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郷土会、新渡戸稲造、牧口常三郎のこと [柳田国男の昭和]

《第222回》
 東京小石川にあった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の西洋風邸宅で、はじめて郷土会が開かれたのは、1910年(明治43)12月4日のことである。郷土会とは、有識者が地域の町や村の実情について語るサロン風の集まりだといってよいだろう。
 この会を主宰した新渡戸は、柳田国男よりひとまわりほど年上で、第一高等学校校長で、東京帝国大学教授も兼ねている。英文で書かれた世界的ベストセラー『武士道』の著者としても知られていた。札幌農学校を卒業した新渡戸はアメリカに留学したこともある国際人であり、のちに国際連盟事務次長を務め、国男がジュネーヴに行くきっかけをつくる。だが、この時期は日本におり、中央とは一線を画した「地方(じかた)学」、すなわち農山村研究の必要を唱えていた。その主張が郷土会の結成へとつながったわけである。
 いっぽう国男もまた、すでに数年前から郷土会や土曜会、龍土会といったさまざまな集まりをもっていた。おもに農政関係者による談話会で、そのなかにはのちに農林大臣となる後輩の石黒忠篤もいた。新渡戸の呼びかけでつくられた郷土会は、国男が幹事を務めることによって、もともと国男の会に集まっていたグループを糾合し、日本の村の風土や産業、生活、慣習などについて語りあう独特のサロンへと発展していった。
 ここに参加したのは、農政関係者だけではない。会津八一や折口信夫、今和次郎、高木敏雄、鳥居龍蔵、中山太郎、山中笑、ニコライ・ネフスキー、牧口常三郎といった、文人、歌人、人類学者、地理学者、神話学者、教育者、宗教家まで幅広い人材が集まってくる。いずれも新渡戸の魅力と包容力にひかれてやってきたのだが、国男にとっても、これらの人びとは貴重な人脈をかたちづくることになる。
 郷土会は年に5、6回、ほぼ10年にわたってつづいた。会は1919年(大正8)末まで開かれるが、その年の3月、主宰者である新渡戸が渡欧し、さらに国際連盟事務次長に就任することによって、自然消滅する格好になった。その間、法制局参事官の国男は兼任の内閣書記官記録課長から、法制局書記官、さらには貴族院書記官長[現在でいう参議院事務局長]に昇進している。貴族院書記官長には5年間在職するが、1919年末にその職を辞し、足かけ20年におよんだ官界生活に終止符を打つ。それが郷土会の幕引きとも重なっている。
 郷土会はあくまでも余業のはずだった。国男は官僚として、与えられる仕事を次々とこなさなければならなかった。だからといって、書物への関心を失ったわけではない。内閣記録課長のときは、江戸城の紅葉文庫を引きついだ内閣文庫の書籍を読みあさっている。
 さらにいえば、農政への関心も引きつづき強かった。さまざまな会合や地方の視察先でも相変わらず農業問題について講演をしているし、法政大学でも農政学の講義を受け持っている。しかし、『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』の著作以降、次第に郷土会で話される農村生活に興味が移っていくことは否定しがたかった。
 そののめりこみが、雑誌「郷土研究」(1913〜17年)や「甲寅叢書(こういんそうしょ)」を発刊したり、郷土会メンバーによる山村調査を実施したりする動きへと広がっていく。こうして、ついに貴族院議長徳川家達(いえさと)との対立を招き、書記官長辞任へといたるのは、ある面で必定だったといえるだろう。
 最晩年の回想録『故郷七十年』で、国男はなぜか牧口常三郎の名前をもちだしながら、郷土会について語っている。

〈明治43年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に、郷土会を設立したが、その定例会員の中に牧口君も加わっていた。ほかには石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏などという人たち[いずれも農政官僚や農業経済学者、人文地理学者]が常例会員であった。そのときのことは私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。石黒忠篤君は今では政治家になってしまったが[当時、参院議員]、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれていたらしい。
「郷土会」のもとになったのが「郷土研究会」という集まりで、明治40年か41年ごろ、私の家で始めたものである。そこへ新渡戸博士が西洋から帰ってこられたので[これはおそらく誤記]、ついには新渡戸先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。話題のもとは会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいていた。ことによると牧口君が連れてきたのかもしれない。……先生のお宅では毎回会費50銭をおさめて、そのころとして2円か2円50銭くらいのごちそうをしてくださった。名ばかりの会費をとって来客の面目を害しないように心づかいしてくださったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て楽しい会であった〉

 会の楽しいふんいきが伝わってくる。
 ここにも多くの人びとが出てくるが、とりわけ牧口常三郎の名が注目される。のちの創価学会初代会長である。国男によると「あまり無口だったから人から愛せられなかった」が、「しかし実にいい人で、一緒に田舎を歩いていても、気持ちがよかった」という。事実、国男は1911年(明治44)5月に牧口をともない、農村調査をかねて、甲州の谷村から道志谷、月夜野を抜けて、相模に出る小旅行をこころみている。
『柳田国男伝』によると、牧口は1903年(明治36)に『人生地理学』を出版し、これをきっかけとして新渡戸や柳田に認められた。苦学の末、北海道の師範学校を卒業した牧口は、東京で小学校の校長となるが、「権力にへつらわないその教育姿勢のゆえに、きまってトラブルを引き起こす、という烙印をおされつづけた」という。そして、1943年(昭和18)に国家神道を批判したとして治安維持法違反ならびに不敬罪の容疑で逮捕され、翌年、東京拘置所内で栄養失調と老衰により死亡している。
 国男が牧口のことを「実にいい人で、一緒に田舎を歩いていても、気持ちがよかった」というのは、よほどかれを気にいっていたのだろう。このころ国男は民間を漂泊する巫女や毛坊主、すなわちヒジリたちのことを書いていたから、ひょっとしたら、まだ宗教家となっていない牧口にヒジリの原像を重ねていたのかもしれない。

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マチャ

会津八一も参加していたんですね。
彼も奈良とは関係が深く、大好きな文人です。
by マチャ (2012-01-19 13:12) 

関  厚

柳田さんと牧口さんの二大巨頭が、農山村調査をされていたなんて、ほんとうに歴史的な場ですね。その調査報告書をよんでみたいです。牧口さんのほうが、若いので、書いたのは牧口さんで、柳田さんが校訂かな?
by 関 厚 (2018-06-18 16:41) 

だいだらぼっち

柳田は牧口のことがほんとうに好きだったようです。明治44年5月12日から15日にかけ、いっしょに甲州谷村から道志まで歩いています。その記録はひょっとしたら新渡戸稲造主宰の郷土会の『郷土会記録』(柳田が編纂)に残っているかもしれません。いずれにせよ、牧口は新渡戸の郷土会に熱心に参加していたようです。
by だいだらぼっち (2018-07-10 06:08) 

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