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覚悟の台湾・中国旅行 [柳田国男の昭和]

《第232回》
『故郷七十年』で、柳田国男は貴族院書記官長時代の台湾・中国旅行について、次のように話している。

〈台湾から大陸にかけて大旅行をしたのは、たしか大正6年[1917]である。前の佐久間台湾総督と、内田嘉吉(かきち)民政長官とが生蕃事件で退いた後を引き受けた安東貞美総督は養家の叔父に当たっていた。つまり桑木厳翼(げんよく)夫人の父である。そして民政長官に選ばれたのが下村宏君であった。私は内田君が本好きだったので親しくしていたが、下村君とも知り合いだったので、何だか同君を叔父に推薦したように思っている人も少なくなかった。そんな噂を聞いて下村君は私を歓待するつもりで台湾に誘ってくれた。しかし実際は内田君の時、下準備をしてくれていたらしかった。招かれていい気になって貴族院議長ともあまり相談せずに、その申し出をうけてしまったが、それが私の失敗の原因で、後々いつまでもごたごたとしてしまったのである〉

 かなり人間関係が入り組んでいるので、整理しておかないと、背景がよくわからない。岡谷公二の『貴族院書記官長柳田国男』などを参照しながら、話を進めることにしよう。
 当時日本の植民地だった台湾には台湾総督府がおかれていた。1914年[大正3]11月、5代目総督、佐久間左馬太(さまた)は健康上の理由で辞意を表明し、翌年5月に安東貞美が総督に就任する。佐久間も安東もともに陸軍出身。安東は国男の養父、柳田直平(なおひら)の実弟で、朝鮮駐剳(ちゅうさつ)軍司令官を務めたこともある。そして、安東の娘が、主にカント哲学を専攻する東京帝国大学教授の桑木厳翼に嫁いでいた。
 前任総督の佐久間は高砂族の討伐と鎮圧に意を砕き、いわゆる理蕃政策を実施した。高砂族とは、台湾の高地先住民(生蕃)につけられた日本側の名称で、植民地当局者は強引にかれらの同化政策をこころみるいっぽうで、その土地の大半を奪っていた。
 大江志乃夫の『日本植民地探訪』には次のような記述がある。

〈1909年(明治42)、時の総督陸軍大将佐久間左馬太は、5カ年計画で、軍隊を投入しての大討伐を行い、隘勇線(あいゆうせん)[先住民の立ち入り禁止ライン]を前進させて包囲の鉄環をちぢめ、「生蕃」を標高3000メートル以上の高山がつらなる台湾脊梁山系に追いあげ、追いつめ、糧道を絶って、降伏か餓死かの二者択一を迫る作戦を開始した。5年目の1914年(大正3)、当時の台湾守備隊の兵力の大部分を投入して西側から脊梁山系を越えさせ、東海岸から警察隊を進撃させ、最後の包囲網圧縮を行い、5か年計画を終了させたのであった〉

 先住民に対する圧迫がすさまじいものであったことがわかる。
 1915年6月、安東の着任早々、大規模な反乱が発生した。いわゆる西来庵事件(タパニー事件)である。事件そのものは、佐久間による高地先住民弾圧政策と直接関係がない。しかし、共有地だった林野を日本側に奪われていたのは、平地に住む漢族や平埔族(漢族に同化した平地先住民)も同じだった。
 西来庵は台南の道教系秘密結社で、その指導者、余清芳は日本統治からの脱却を訴え、植民地化20周年にあたる6月17日を期に武装蜂起を計画していた。だが、その計画は事前に察知され、多数の関係者が逮捕された。余清芳は網の目をくぐって、台南北東70キロほどのタパニー地方に逃れ、山間に閉じこもりながら、地元住民たちとともに役所を占拠するなどして、1カ月にわたり日本側と戦いをくり広げた。
 文献により数字はまちまちだが、その際、日本人が95人殺害され、村民にも多くの死傷者が出て、台湾当局は余清芳をはじめとして1957人を逮捕、866人に死刑を宣告された(大正天皇による恩赦があり、実際に処刑されたのは日本人殺害者数と同じ95人)。
 大きな反乱事件だった。だが着任早々の安東総督は責任を問われることなく、その代わりに民政長官の内田嘉吉が辞任して、逓信省貯金局長だった下村宏がその後任となった。国男が叔父の安東から相談をもちかけられて、下村を推薦したことはじゅうぶんにありうると岡谷公二は推測している。
 ちなみに内田嘉吉も後任の下村と同じく逓信省出身で、いったん民政長官をやめたあと、1923年[大正12]に第9代台湾総督に就任する。読書人でもあり、南洋に造詣が深く、アルフレッド・ウォーレスの『南洋』(のち『馬来(マレー)諸島』と改題)を翻訳したことでも知られていた。
 下村宏は海南の号をもつ歌人でもあり、のちに朝日新聞副社長となり、終戦時には情報局総裁として玉音放送の前後にラジオで司会役を果たしている。国男とは大学は2年先輩だが、同年齢で、古くからの友人だった。
 いずれにせよ叔父の安東や友人の下村とのつながりが、国男に台湾旅行を促すきっかけになったことはまちがいない。台湾、中国も含めて、国男の出張扱いの旅行は、3月20日から6月3日までの長期におよんだ。時あたかも議会は休会中で、4月20日に衆議院総選挙がおこなわれることになっていた。その結果は原敬率いる政友会の圧勝に終わるものの、寺内正毅内閣はもうしばらくつづく。旅に出る前、国男は政局にそれほど変化はあるまいと高をくくっていた。
 しかし、国男と貴族院議長、徳川家達との関係はすでにぎくしゃくしていた。貴族院の事務方は議院の運営をサポートするのが仕事であって、何も議長の召使いではない。それでも議長との意思疎通がうまくいかなくなっていることは、具合が悪かったのではないだろうか。
 台湾旅行への誘いは、貴族院の仕事にうんざりしはじめていた国男にとっては、まさに渡りに船でもあった。だが、みずから書記官長をやめるつもりがなかったことは、旅行から戻ってから、さらに1年半このポストを維持した経緯をみても明らかである。議長と書記官長の意地の張り合いみたいなところもある。
 旅に出る直前、国男は4年間出しつづけてきた雑誌「郷土研究」を休刊している。そろそろ新しい材料が集まらなくなったのも事実だが、『故郷七十年』で述べているように、「貴族院もそろそろやめなければならない情勢になってきたと思ったので、『郷土研究』も残っていると後がまずいと考え、口実を作って4巻でやめたしまった」というのがホンネだった。
 つまり、国男にとって台湾・中国行は、なかば書記官長辞任を覚悟した旅立ちだったのである。次の身の処し方に向けての模索がはじまっていた。

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