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官界を去る [柳田国男の昭和]

《第233回》
 柳田国男が門司港から信濃丸に乗って、台湾の基隆港にはいったのは1917年(大正6)3月27日のことである。ロシアでは2月革命が起こり、ケレンスキーの臨時政府が誕生していた。
 国男は基隆(キールン)から列車で台北にはいり、そこで、さっそく視察や講演をこなした。30日からは友人の下村民政長官らと「蕃地視察」に出発し、台湾中央部の日月潭や霧社を訪れている。下村が公用で台北に戻ったあと、国男はさらに台南、高雄へと南下し、今度はその同じルートを北上、台中に1泊して、台北に戻っている。
 台湾には2週間ほど滞在したが、その間に8首ほど歌を詠んだ。
 湖の島で先住民が生活する山中の日月潭ではこう歌った。

  海知らぬ島びとこそはあはれなれ
  山のはざまをおのが世にして

 霧社から戻るときの歌はこうだ。

  時のまにとほ山まゆとなりにけり
  わらひさやぎしえみし等のさと

 霧社では1930年(昭和5)に大規模な抗日暴動が発生することになるが、国男は霧社を、かつてにぎやかだった「えみし等」の郷ととらえるにとどまっている。
 台北に帰ると、待ちかまえていた友人たちが歓迎会を開いてくれた。そこで、国男は最初に「太平楽な長い演説」をしてから、傍若無人な歌を6首披露したという。
『故郷七十年』では、こう語っている。

〈第1首は、台南か台中か、生蕃[先住民]が叛乱して大勢殺された西螺街(せいらがい)とかいうところへ行ったとき、非常に強い印象を受けて、折があったら、その悲しみを話したいと思っていたので「大君はかみにましませば民草のかかる嘆きも知ろしめすらし」と吟じた。一座はしいーんとなったが、私としては実はそれが目的だったのである。畏れ多い話であるが、私どもは東京にいるから大正天皇さまがこういうことはまるでご承知ないことをよく知っている。それで詠みあげたものであった。私も若く意気軒昂としていたのであろう〉

 この一節について、岡谷公二は国男の勘違いを指摘し、「彼が訪れたのは台南市の西来庵であり、叛乱をおこしたのは『生蕃』ではなく漢族で、事件がタパニーに移ってから『生蕃』の平埔族が一部同調したにすぎない」とする。
 たしかに「台湾日日新報」に掲載された記事によると、国男が大君うんぬんの歌を詠んだ場所は「再(西)来庵」とされているので、「生蕃が叛乱して大勢殺された西螺街」というのは現地で説明を受けた国男の勘違いである可能性が強い。
 タパニー、すなわち現在の玉井郷を国男が訪れたかどうかははっきりしない。また台南と台中のあいだに西螺街という場所もあり、ひょっとしたらここも訪れた可能性があるが、どこかで記憶の混同が生じたのかもしれない。だが、いずれにせよ、国男は台北の宴会で、だれもがぎょっとする天皇の名を出して、先住民とはいえ、同じ民草にはちがいないのだから、大量殺害などあってはならないのだと歌い、暗に武断政策をいましめたのだった。
 4月10日朝には台北を出発し、基隆から襟裳丸に乗って大陸の厦門(アモイ)に向かった。その後の動きをまとめると、厦門からは汕頭(スワトウ)をへて広東にはいり、そこでわりあい長く滞在しながら、広東料理の贅沢ぶりにおどろきつつも、中国人のあいだに「情けないほどの著しい貧富の差」を感じて、悄然としている。
 そのあと、上海行きの船がなかなかつかまえられなかったため、4月末まで広東付近にいて、川舟で珠江をさかのぼる旅をした。そのとき蛋民(たんみん)と呼ばれる水上生活者に興味をもち、それについてしらべてみたいと思ったのが、いかにも国男らしかった。
 4月末、国男はようやくイギリス船に空きをみつけて、上海に向かった。上海では浄土真宗本願寺派の門主で探検家でもあった大谷光瑞(こうずい)の世話になり、またかつて早稲田大学に留学し、国男とも旧知だった戴天仇(たいてんきゅう)の案内で孫文とも会ったが、『故郷七十年』で語っているところでは「その内容はよく憶えていない」という。
 袁世凱が中華民国大総統、さらに帝位に就いたとき、孫文は下野し、常に暗殺の危機に見舞われていた。国男が中国を訪れたころは、袁世凱が死去し、大総統の座を黎元洪(れいげんこう)が継いだものの、実力者総理で軍閥の段棋瑞(だんきずい)と対立し、中央政権が分裂しかかっているさなかだった。孫文は広東を拠点にして新政府を樹立し、巻き返しをはかろうとしていた。
 やっかいな中国情勢を国男がどうみていたかはよくわからない。だが、帰国後、「日華クラブ」なるものを創立するために奔走するのをみると、国男が軍閥割拠の感を呈しつつあった中国の安定と発展に寄与したいと願っていたことはたしかである。だが、会長に近衛文麿を迎えたこのクラブも、あっけなく水泡と帰した。
 上海滞在は短く、国男はあわただしく汽車で南京に向かい、そこから船に乗って漢口にはいった。いったん江西省の大治鉄山を訪れてからふたたび漢口に戻り、開通したばかりの京漢線に乗って、北京に到着した。北京滞在中、黎元洪と段棋瑞に会ったものの、それは儀礼的な訪問にとどまったようである。
 北京を発ったのは5月20日。そろそろ帰国せねばならない時期が近づいていた。
『故郷七十年』では、こう語っている。

〈日本からきた新聞によって、政情がだいぶあやしいことが分かった。留守中に内閣の更迭でもあったらさぞ悪くいわれるだろうと思って気が気でなく、あとは奉天に1泊して大連へ往復したきりで、朝鮮を通り、大急ぎで東京へ帰ってきた〉

 明治憲法は議院内閣制を採用していない。それでも政党の力は無視できなくなっていた。4月の総選挙では、原敬率いる政友会が圧勝した。そこで政党から一線を画していた寺内正毅(まさたけ)の超然内閣が、議会多数派となった政友会にどう対応するか、また政友会が寺内内閣にどういう態度で臨むかが問われていた。結果的に政友会は寺内内閣を支えることになるのだが、政権の安定を見越し、新議会の開催はせいぜい秋だろうと踏んでいた国男も、こうした政情不安を新聞で見て、すこしあわてたのである。
 国男は奉天(現瀋陽)と大連に少し立ち寄り、京城(現ソウル)は2泊しただけで、釜山をへて、何やら気もそぞろで日本に帰国した。いくら退職覚悟の台湾・中国旅行とはいえ、ひょっとしたら寺内内閣が倒れるかもしれないというときに、現職の貴族院書記官長が外遊していてはしめしがつかないことくらいは、さすがにわかっていた。
 旅行から戻ったあと、徳川貴族院議長との関係はますます険悪になっていった。しかし、何も過失はないのだから、みずから身を引くにはおよばない。国男は、その後の在任中も、実弟、松岡静雄の設立した「日蘭通交調査会」に協力したり、先に述べた「日華クラブ」の創立に奔走したりしていた。
 ここに出てくる「日蘭通交調査会」は、日本とオランダの友好を促進することを目的にした団体である。だが、松岡静雄の真のねらいは蘭領インド(現インドネシア)にあり、日本の農民を蘭領インドに送りこみ、稲をつくらせることにあったという。岡谷公二は「移民と食糧増産と日蘭親善の一石三鳥を狙う計画が、具体的な目標だったようである」と述べている。だが、この壮大な計画も、静雄が病気で倒れたために、けっきょくは挫折を余儀なくされる。
 貴族院議長との関係は日を追って悪化し、徳川家達は後継の原敬首相に書記官長は職務に不熱心であるとして、善処を申し入れるほどだった(『原敬日記』)。それは一方的な言い分にはちがいなかった。だが、国男の辞任を決定づける「事件」が起こる。
 1919年(大正8)5月、国男は九州の漁村を旅行し、中国訪問以来興味をもっていた水上生活者について、話を聞いたり、調べものをしたりしている最中だった。
 そのときのことだ。国男自身はこう話している。

〈それで用事を作って長崎に行き、平戸へ渡った。平戸の北の方にある大きな海女村を見たり、また大分県にあるシャアと呼ばれる海上生活をする人たちや、家船(えぶね)を見に行った。その留守中に内閣が異動したり、衆議院の官舎が焼けるという事件が起きてしまったのである。……急いで東京へ帰ってくるまでのうちに、もうだいぶ批判があって、そうでなくとも役所にはおられないと思っていたところだったから、辛うじて大正8年[末]までいるのに非常に骨が折れた。その年の下半期になると親類の者までがもう辞めなければみっともないなどと言ってきた〉

 当時の議事堂は内幸町(経済産業省のあたり)に立っていた。この火事で貴族院のほうは無事だったが、衆議院の議場はほぼ丸焼けになった。国男が住まいとする官舎も、一時は家財を運びだすほどの騒然とした状況に見舞われた。そんなとき、のんびり九州を旅行していた国男に非難が集まったのはいたしかたなかっただろう。
 辞職は必至となった。自身は何の非もないと思っていたから、詰め腹を切らされる思いだったにちがいない。その転任先は宮内省図書頭か帝室博物館長かとうわさされたが、国男はそれを固辞する。このふたつの職がある人物、すなわち敬愛する森鷗外によって兼任されていたからである。それを奪うわけにはいかない。
 1919年(大正8)12月21日、貴族院書記官長の国男は原首相に辞意を表明し、20年近い官界生活に終止符を打った。数えで45歳のことである。

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