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まぼろしのパレスチナ出張 [柳田国男の昭和]

《第245回》
 国男の気持ちを暗澹とさせた第2期(1922年)の委任統治委員会がどのようなものであったかは、やはり外務省の山川端夫に送った書簡からうかがうことができる。しかし、それをことこまかに紹介するのは骨が折れるので、ここでは『柳田国男伝』にしたがって、その要点とその後の経緯を示しておく(書簡は口語訳した)。
 8月1日から11日までのわずか10日ほどの開催だったにもかかわらず、会議は多忙をきわめたと、国男は山川に報告している。

〈本年はA式のシリア、パレスチナ、およびB式のアフリカ諸領がともに委任統治が確定したばかりだったので、代表者が出ず、そのためこれらの地域についてはそれほど審議がなされませんでした。にもかかわらず前後17回の会議を重ね、文書の煩雑、事務の紛糾を免れませんでした。来年以降は、とうてい3週間以内で放免される見込みはなさそうです。夏休み中なのにとんだことだと、小生のように閑人ではない他国の委員はぼやくことしきりです〉

 最初の会合では、英国側の委員から、日本の報告が審査されるさいに、オーストラリア政府代表の出席を認めてほしいという申し入れがなされた。まもなく英連邦を構成するオーストラリアは、日本が南洋群島を独占的に管理するのではないかと疑っていた。
 これにたいし、国男は反論する。
「そうなれば、日本の政府代表も同じようにオーストラリアやニュージーランドの代表が説明するときに立ち会って、質問なり意見を述べるということになるでしょう」
 英国側は「それでけっこうだ」と答えた。
 しかし、それでは紛糾が生じた場合、いつまでたっても議論が終わらなくなるかもしれない。そこで、けっきょくは「評定のすえ、個々の場合は例外として、これを認めるにしても、原則としては、あくまでもこの会は非公開とすることになった」と国男は山川に報告している。
 そのあと、ようやく夕方から南洋群島に関する日本の報告書が審議されることになった。日本側代表として説明に立ったのは、松田道一特命全権公使(のち在仏代理大使)だった。
 その報告について、委任統治委員の国男は、事後の書簡で忌憚なく感想を述べている。

〈(1)日本の報告はナウル島[オーストラリア等の委任統治領]を除けば、いちばん短いものでしたが、短いだけならともかく、おうおうにして理事会の提示した質問に「はい」とも「いいえ」とも答えていない個条がありました。
(2)数字が少なく、かつ整っていませんでした。これもあくまでも比較の話ですが、他の委任領がいろいろの統計をかかげて、いかにも正確な印象を与え、質問の手掛かりを提供するのにたいし、これがない日本の報告はどうしても故意に事実を隠そうとしているのではないかという感じを与えてしまうのではないかと思います。それほど露骨ではありませんでしたが、来年の報告に対する注文が[各委員から]ずいぶんと出されました。
(3)教育、衛生、裁判の3つに力を入れていないのではないかという感じでした。これも日本の報告が下手なのではないかと思います。そのうえキリスト教の伝道をおろそかにするのではないかという疑惑も混じっていたようです。これはどの国でも実に面倒なことですが、原住民にありがたい教えを聞かせる機会を奪ってはいけないというのが、いまなお欧州の信条でありますので、日本としては注意に注意を重ねなければなりません。
(4)代表者が適任ではありません。この点は、気の毒ながら松田君も認めないわけにはいかないところです。松田氏がパリの人であることは委員もよく知っており、質問も手加減したようですが、それでもなお電報で頻繁に問い合わせなければなりませんでした。あれだけの経費をつかうなら、前もってもう少し体裁の整った報告をつくるとか、別途参考書類を送っておくとかすれば、それはど困らなかったでしょう。とはいえ、あのように多忙な身分の人では、参考書に目を通す時間もないかもしれません〉

 実にこまかく、また辛辣である。外務省が国際的に通用する、きちんとした報告をつくっていないことも明らかだった。とりわけ国男は、特命全権公使でフランス臨時代理公使でもある松田道一が適任ではないと断言している。公式報告ではない書簡とはいえ、この発言はのちに波紋を広げていく。実際、両者の関係はよくなかったのだろう。
 第2期の委員会では、各受任国から提出された年報が次々と審議されたが、その作業があまりにも錯綜をきわめたので、次年度からは各委員が担当分野をもって、その審議にあたることが決まった。国男に割り当てられたのは「道徳的、社会的、ならびに物質的な福祉」と「人口動態統計」である。国男がこの年、日本に帰らないことにしたのは、ひとつはこの分野を受け持つことになったためと、もうひとつは委任統治の実態をさらに研究してみようと思ったからである。
 山川への書簡では、こう書いている。

〈小生は、皮肉な同僚がいて、経済的均等待遇問題をやってくれといわれましたが、いやだと返事をし、これまでも少しは心がけてきた民族問題、および「土人の幸福とは何か」という問題を引き受けることにしました。これなら道楽の学問とも若干一致しますので、これからあまり旅行などせず、静かなところで本を読もうと決意した次第です〉

 9月6日に国男は定宿のオテル・ボー・セジュールを引き払って、ミルモン街6番地の小さな二階屋に移った。
 ただし、旅行熱が収まったわけではない。引っ越しが終わると、さっそくドイツ各地を回っている。
 9月20日からは数日にわたり国際連盟の第3回総会で委任統治問題が討議された。ジュネーヴに戻った国男はそれを聞きにいく。南ア連邦のスマッツ将軍の言動と、その委任統治領、南西アフリカの問題、さらにはパレスチナの委任統治とユダヤ国土の建設が大きな話題となっていた。
 国男は総会が公開されていることを高く評価している。
 しかし、この段階で、すでに山川あてにこう書いていた。

〈小生の後任の問題をそろそろお考えいただいているでしょうか。この年になって、ひとり暮らしというのは、とても長く堪えられることではありません。委任統治委員の仕事はこれからも力のかぎり働くつもりですが、来年8月が終わったら、何とぞ後方勤務に代われますよう、いまからご準備ください。だいぶ書類もたまり、また問題も積み重なっておりますので、丁寧な引き継ぎをいたしたく、やめてから翌年までに人を考えようというようなことがないよう、ちと早めからさらにご注意をとお願いする次第です〉

 ひとり暮らしのつらさに加えて、委員会の仕事は3年が限度と踏んでいた。本来の仕事に戻りたいという思いが強くなりはじめている。
 ところが、この同じ手紙には、おどろくべき出張申請もなされている。

〈パレスチナの委任統治には一通りではない複雑な事情があります。とくにいわゆるユダヤ国土の建設については、賛否ともそれぞれ理由があって、前の7月の理事会決定は、けっして解決とはいいがたく、イタリアも法王庁も無理に英国に抑えられ、一時がまんしているだけなので、来年にも大問題が内外から起こってくるでしょう。けっきょく世界4大宗教のなかの3つが喧嘩することになるので、委任統治委員たちは、もちろん冗談口調ですが、「われわれはいずれもクリスチャンなので公平を疑われる地位にあるから、これはぜひ柳田氏に働いてもらわねばならぬ」などと、たびたび話しています。そうでなくとも、ユダヤ人問題に関しては、欧州では長年の歴史から、人は「反ユダヤ主義者」か「ユダヤ主義者」かのどちらかに分かれ、公平の判断を下す資格はありません。小生は、有色人種であっても日本人よりも西洋人と交渉の密な文明人がこの地にいて、いつでも大問題を引き起こしうると考え、何よりも大いなる興味をもって、この問題の成り行きに注目している次第です。言語などの関係で委員として十分な働きはできないかもしれませんが、せめて事情の大要を誤りなく日本の同胞に語り伝えたいと切なる望みをいだいている次第です〉

 こうして国男はパレスチナ事情を調査すべく、10週間くらいの出張を外務省に申請するのである。予定では、はじめにエジプトを見て、せめて汽車のあるだけ北アフリカを回り、多少の準備をしてからエルサレム、ダマスカス、それからコンスタンチノープル[イスタンブール]を歩き、それからジュネーヴに戻ってくるつもりだった。その費用は500ポンド(現在の貨幣価値では700万円程度か)と見込まれていた。
 2カ月ほどたって、出張申請は内田外務大臣によって認められる。ところが、国男と対立するパリ代理公使の松田道一から横やりがはいった。
 松田はこう言って国男の出張に反対する。日本にとって利害関係の薄いパレスチナに旅行して、英国側を刺激するのはよくない。また来年8月に辞めようという男に出張費までだして視察させることにどんな意味があるのか。行きたければ、個人でカネを払って、勝手に行けばいいのだ。パレスチナを調査するなら、本省(外務省)の人間が行けばいいのであって、委任統治委員が行くのは権限を逸脱している。
 松田の反対は執拗だった。自分が批判されたことを根にもっていたのだろう。度量が狭いのに加えて、意地が悪いとしか言いようがない。外務大臣まで許可したのに、それにねちねちと異を唱えた。
 その結果、国男のパレスチナ出張は中止となる。
 11月28日の日記に国男はこう書く。
「巴里[パリ]より手紙、パレスチナ行きさし止めとのこと」
 さらにその翌日の日記。
「昨夜家に還った夢を見る。家よりたより有り。ウナリ考[おなり考]を仏文にて書く気になる。空晴る。午後逍遙す。心最も静かなり」
 心穏やかであれば、日記に「心最も静かなり」とは書かない。国男の失望がいかに大きかったかがわかる。
 のち1946年(昭和21)11月に発表した、多少記憶の混同が見られるエッセイで、国男はそのときのことを次のように回想している。パリの日本大使館から出張見合わせの返事をもらって「また一人でも計画はできたわけだが、すっかり出鼻をくじかれてしまって、もうそういった元気もなくなり……仕事に対する興味は淡くしてしまった」。
 こうして、国男のパレスチナ行はまぼろしとなった。そこにどんな出会いが待っていたかを想像すると、かえすがえす残念というほかない。

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