SSブログ

最後の委任統治委員会 [柳田国男の昭和]

《第246回》
 パレスチナ出張は中止を余儀なくされた。しかし、それで落ちこんでしまう国男ではない。さっそく頭を切り換えて、1923年(大正12)の1月から4月にかけ、2度にわたりイタリアを約60日間旅している。
 回ったのはミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェネツィアなど。ウフィツィ美術館では、ボッティチェリの「海の姫神」、つまり「ヴィーナスの誕生」を見て感銘を受けた。それがのちに名作『桃太郎の誕生』を生むきっかけになるとは、本人もまだ気づいていない。ローマでは、森鴎外の訳したアンデルセンの『即興詩人』を片手にさまざまな場所を見学した。エトルリアの美術や、さまざまな女神像に興味をいだいたのも、イタリアを旅したときのことだ。
 ジュネーヴに戻ってからは、7月に開かれる委任統治委員会の準備をしなければならなかった。今期が最後になると思えば、調査にも力がはいる。国男は会議に先立って、「委任統治領における原住民の福祉と発展」という報告書を英文で書き上げた。
 7月20日から8月10日まで開かれた、33回にわたる委任統治委員会の会合を事細かに紹介する必要はないだろう。国男が外務省の山川端夫にあてた私信をみれば、その様子をつかむことができる。ざっと口語訳して、その概要を示しておこう。
 国男はこの私信で「9月中にはヨーロッパを去り、たぶん北米をへて12月初旬には帰るつもり」──実際にはロンドンで関東大震災の報に接したため、11月初めに帰国するのだが──と、帰国予定を連絡したあと、委員会についての率直な感想を述べ、外務省にさまざまな注文をつけている。
 翻訳の時間もあると思うが、報告書はできるだけ早く送ってほしい。法令の訳文や地図の添付も忘れないように。その他こまごまとした要望を述べたあとで、国男はこう記している。

〈今回の報告は全体において簡単ながら、よくまとまっていると好評でした。ただ翻訳者が南洋の問題について素人であったためか、日本文ならよくわかる箇所が、英文では不明瞭となり、そのため無用の質問などが出て、つい議論になったのが残念でした。これは何とかしなければならぬと思っております。南洋長官はもちろん日本の政府もこの英文によって責任を負うことになりますので、誰か上の人がよく見ておかねばならないでしょう〉

 翻訳はなかなかやっかいな問題だった。加えて、日本政府代表の説明のまずさが、国男に歯がゆい思いをさせた。
 こう書いている。

〈[英国などがアフリカのことを隅から隅まで知っている代表を送りこんでいるのに]日本だけが松田[道一]公使のように、報告書に一度さっと目を通したという代表を出し、質問ごとに多くもない書類をひっくり返し、返事にてまどるようでは、いかにも印象が悪く、そこで委員の中からいろいろの新たな議論が出てこないともかぎらないわけです。松田氏も非常にこれを気にしておられるようで、来年は同じような別の人に担当を譲りたいという考えのようです。しかし、それではいっそう不慣れでしょうから、その結果がまずいものにならぬかと、ひたすら心配しております。ぜひ、いまのうちから、いろいろ考えておくのがよろしいと存じます。小生は、通訳さえしっかりしていれば、自分でしゃべれなくても問題はなく、いま少し南洋の事情に通じた人を代表として出す必要があると考えております。また代表という以上は、ぜひとも事情をはっきりのみこんだ人でなければならないのではないでしょうか〉

 痛烈な批判である。
 松田公使への痛罵は、個人攻撃と受け取られるかもしれないが、そうではない。とりあえず委員や政府代表を出しておけばよいという外務省の態度は、国際連盟を外交上のおつきあいとしか考えない日本の消極的姿勢を示していた。しかし、そんなことではいつまでも日本が世界で認められないのではないかと国男は懸念していた。

〈実際、委任統治の新制度は、ばかげきった迷惑なおつきあいかもしれませんが、この制度がある以上は、これを軽んじて、今日までのようなやり方をつづけることは、はなはだしい不得策ではないでしょうか。連盟事務官による日本の批評は、小生の耳にはいったものだけでも、いかにもおもしろくないものです。陰では定めて悪評をしていることと思われます。自分までが、その原因の一部分をなしているようでは、ひと言の申し訳もない次第ですので、これを機会に、少なくとも関係の事項については、できるかぎりの思案をされ、正しいご判断をされるようお願いする次第です〉

 この時代、日本人はまだ国際的な舞台に慣れていない。ある意味では、いまもそうかもしれない。語学力はたしかに問題だった。しかし、それよりも重要なのは、国際的に通用する論理と行動、誠実さを日本人が持ちあわせているかという点だった。
 しかし何はともあれ、国男にとって最後となる委員会で、かれが「委任統治領における原住民の福祉と発展」と題する報告書を提出したことに注目したい。この報告書については、各委員のあいだで深く論議された形跡がない。ただ提出されただけで終わった可能性もある。
 それでも、それは柳田国男という日本人が、3年間、国際連盟統治委員会の委員を誠実に務めたあかしにはちがいなかった。
 この報告書で、国男は委任統治領における人口動態の把握に力をいれるべきだと主張している。
 委任統治領では、同じ領域内にさまざまな種族が共存する場合もあるし、新たに別の種族が移動してくる場合もある。とりわけ、アフリカでは、同じ地域内にさまざまな種族が入り乱れ、そのために紛争が起こりやすい。
 さらに、問題を複雑にしているのが、白人入植者の活動と欧州列強間による領土分割であって、この地域で協調と繁栄を確立するのは容易ではない。
 国男が委任統治領内の人口動態の把握を訴えたのは、各種族の実情がわからないかぎり、住民の保護を徹底できないどころか、住民間の紛争を防止することさえできないからだった。
 おそらくパレスチナの現況を踏まえたと思われる言及もある。パレスチナでは、バルフォア宣言以降、ユダヤ人の入植が一気に進んでいた。

〈欧州の入植者にかぎらず、委任統治地域へのすべての入植者は、変革への主導権をとり、そのことによって、いつも同じ場所で暮らす原住民よりすぐれた能力をもつことを立証してきました。私もまた、入植を全面的に禁止することはむずかしいと思いますが、そうだとすれば、各国政府のとるべき道は、原住民を抑圧原因から守るために、これまでにない適切な措置をとることであります〉

 この言及はパレスチナにかぎったことではなく、委任統治領で一般に各国政府のとるべき対応を示唆していたのかもしれない。だが、もし国男のパレスチナ出張が実現していたら、この部分はさらに具体的な提言となっていた可能性もある。そうなれば、現在にまで引きつがれる中東紛争の最大要因が軽減されていたと夢想するのは、あまりにもうがちすぎだろうか。
 この報告書では資源や土地、裁判や行政制度なども含めて、多岐にわたる論点が検証されているが、ここではそれを全部紹介するわけにもいかない。しかし、そこに一貫してみられる姿勢は、受任国政府の利益をいかにして確保するかということでなく、各国が原住民の福祉と発展のために、どのように力を貸せばよいのかという方向性である。それはけっしてレトリックではなく、国男の真摯な願いだったといってよい。
 国男は委任統治領の住民が幸福を求めて発展するには、何よりも教育がだいじだと思っていた。だが、少数の才能あふれる特別な青年に最先端の教育をほどこす方式は、社会に亀裂を生じさせる場合が多く、かならずしも住民の発展に結びつくとは思えなかった。

〈それゆえに選択すべき教育計画は、原住民の社会水準の上昇をめざすものであり、しかも全体的に共同体のためになるものでなくてはなりません。その関連で、好ましい影響をあたえているものを挙げるなら、農業その他の基本的生産部門でなされている訓練や、地元の生産物を活用した手工業部門での訓練、さらにはまだ初歩的とはいえ日常生活に応用される医療面での訓練などがあります〉

 国男は職業訓練教育を充実させ、そのために現地の教員を養成すべきだと主張した。
 だが、かれの計画がもっと遠大だったことは、歴史や地理をどう教えればよいかという点にふれながら、こう述べているのをみてもわかる。

〈昔のやり方は、原住民の子どもに、愛国的な歌や歴代皇帝の名前を覚えさせるといった、あまりにも国家主義的で、ふたつの人種の同化[というか宗主国への原住民の従属]だけをねらったものでした。さすがにいまではこうしたやり方は取りやめられる傾向にあります。これから興味深く観察したいと思うのは、きちんと系統だった方法で歴史や地理を教えたら、原住民の考え方がどのように変わるかということであります。というのも、かれらが個々の存在や生きる意味を知るようになるには、アフリカや太平洋の広大な地域のなかで、さらには長い人類史のなかで、自分たちがどのような位置を占めているかを理解しなくてはならないからであります〉

 近代という時代にあって、原住民が世界におけるみずからの位置を認識すること、すなわちかれらがアイデンティティを自覚することが、すべてのものごとの出発点だった。教育の目的は個の自覚をうながすことにある。
 そして、国男は、これらの教育が欧州の言語によってではなく、できるかぎり現地のことばによってなされるべきだと強調した。

〈とはいえ、原住民の言語を採用したほうが賢明だと思われる、少なくとも3つの事実があります。(1)語彙や文法構造に類似性があることから、その言語の習得がずっと容易になされること。(2)少なくとも原住民のなかには、労をいとわずそれを学ぼうとする者がいること。(3)この計画からは新しい特権階級が出てこないこと。いずれにせよ、だいじなことは、行政府と原住民、部族間の意思疎通をはかり、それを簡素化する最善の方法をみいだすことであります〉

 国男の主張は、支配者のことばでつづられてはいない。それは世界を領導すべき公平な文明諸国を代表する立場からの発言だったといってよいだろう。だが、その立場から見つめなおしても国男の結論は変わらない。すべての政治は大衆(コモンピープル)の幸福のためにある。
 現実の政治が、かならずしも大衆の幸福を志向していないことは承知している。むしろパワーポリティックスこそが現実政治の実相だった。それでも、国男は国際連盟の場でも、みずからの理念を崩そうとはしていない。
 とはいえ、国男が限界を感じていたのは、報告書でえがかれた大衆が、知識としての大衆、つまり文字によって把握された大衆でしかなかったことである。自分にとって、ほんとうの大衆はどこにいるのか。
 おぼろげな方向性が、日本のコモンピープルの学を立てねばならないという決意に変わったのは、ジュネーヴを発って日本に帰国する途中、ロンドンで関東大震災の報に接したときである。そのときジュネーヴの3年間は、あっというまに遠ざかっていった。

nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0