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日本民族南方起源説 [柳田国男の昭和]

《第247回》
「故郷七十年」と題して「神戸新聞」に連載される自伝めいた談話も、終盤にさしかかっている。1921年(大正10)から23年にかけてのジュネーヴ時代を回顧したあと、柳田国男は昭和にはいってからのことをあまり語っていない。しかし、その後の歩みは、「柳田国男の昭和」と題する本稿を読みなおしていただければ、その概要がつかめるだろう。いちおうの談話を終了したのは、1958年(昭和33)3月29日のことで、このとき国男は満82歳になっていた。
 新聞連載の最終回には「日本民族の起源」という表題が付されていた。日本人とは何か、日本人がどのように暮らしてきたか、そしてこれから何を頼りに生きていくべきかを追求してきた国男にとって、未解決のまま残されていたテーマが「日本人はどこから来たか」という問いだった。
 こんなふうに話している。

〈日本人ははじめにどこから来て、どこの地域に入ったのであろうか。人間の移動にはいろいろの信仰といっしょに、生活の方式をもってこなければできない。そして日本人の信仰と米作とは切り離して考えられないから、やはり大部分は南の米作地帯から米作をもってきたのだろうと思われる。ただ先祖から稲作をしていた人間がいつもじっとして一つ所に耕作をしていたとは限らない。例えばシナの沿岸地帯など、東夷と船で往来していたというが、夷という字は「たいらか」とも読むから、東方に穏やかな民族がいたとも解釈せられる。同じ沿岸地帯には百越とか諸越とかいわれたいろいろの未開族がいたことは知られている。そしてわれわれが後々「もろこし」といって「唐土」の字をあてているが、じつは諸越または百越と書いて「もろこし」と読んでいたのかもしれない〉

 百越とか諸越と呼ばれたのは、いわゆる越族のことで、中国の長江南部からベトナムにかけて住んでいた民族のことである。基本的に日本人南方起源説をとる国男は、日本人は中国の越の地、すなわち江南から舟か筏に乗って、沖縄にたどりつき、北方に向かったと考えていた。
 とはいえ、それがひとつの仮説にすぎないことも認めている。騎馬民族説は否定したものの、北方起源説は頭からしりぞけたわけではない。
 その証拠に同じ記事のなかで、こう述べている。

〈私が思うのに南方から来ていないと裸の人形がないのと同様、北から来なければあのように太った土偶はできるわけがない。土偶を造った縄文、弥生の二つの様式だけを見ても、文化に二つの系統があるといえるのである。北から来たか、南から来たか、いろいろの説があるが、仮定説を作ることは少しも悪いことではないので、ただ「かもしれない」ということを後につけ加えておかないのが悪いのである〉

 おそらく南方からの民族と北方からの民族が、二つの文化の古層を保ちながらも、稲づくりを生活形態とするひとつの信仰のもとに統一されて、日本民族が生まれたというのが、国男の立てた仮説なのである。しかし、それを主導したのは、あくまでも江南から稲をもって、黒潮に沿って移動した南方を起源とする民族だと思われた。
 これにたいし、江上波夫の騎馬民族説は、大陸から朝鮮半島南部に南下した民族が徐々に日本を席巻し、ついに大和に征服王朝を築くという大胆な仮説にもとづいていた。国男がその考え方に反発したのは、かれがそこに皇室否定の潜在性を感じていたばかりでない。実際にその説が荒唐無稽と判断していたためでもあった。
「騎馬民族説への疑問」では、こう話している。

〈今日では大陸から朝鮮を南下し、海峡をぴょんと渡って日本へ入って来たろう、文化も人間もみなそうして入って来たろうと、簡単にきめる空気が非常に強いが、私ははっきりとその説に反対している。なぜなら南からでなければ稲は入って来ないし、稲が来なければ今の民族は成立しないと思うからである。今の民族は単に百姓が米を作るだけでなく、皇室も米がなければ神様をおまつりすることができないのである。神様を祭る時の食物には必ず稲が入っている。したがって私は日本民族は稲というものと不可分な民族だと確信している。稲は後から来たようなことをいう人もいるが、どうしても稲ははじめから携えて来なければ、それに伴う信仰とか、慣習とかのある説明がつかない。考古学者も人類学者もこのようなことを少しも考えない。そのいちばん極端なのが例の騎馬民族説である〉

 騎馬民族説にはきちんとした裏づけがなかった。しかし、それを否定する国男の日本民族南方起源説もまたはっきりした証拠を欠いていたといわねばならない。論争はまだはじまったばかりだったのである。
 だが、むしろだいじなのは、最晩年にいたっても「日本人とは何か」を問いつづけようとした国男の姿勢にあったというべきかもしれない。それはけっして偏狭なナショナリズムのなせる業だったとは思えない。国男は民俗学を比較民俗学や民族学の方向に拡張しようとしていた。それが日本人とは何かという問いとなって結晶したのであり、その問いは、変転いちじるしい世界のなかで、今後日本人がみずからの存在根拠を保ちながら、どのように誇り高く生きていくべきかという思いとつながっていたのである。

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