SSブログ

桑原武夫との対談 [柳田国男の昭和]

《第248回》
 はっきりした日付はわからないが、柳田国男が1958年6月に筑摩書房から刊行される『講座現代倫理』第6巻のために桑原武夫と対談をおこなったのも、この年の初めごろだったと思われる。その対談には「日本人の道徳意識」という表題がつけられていた。
 このとき京都大学人文科学研究所教授(まもなく所長)を務めていた桑原は、知識人の戦争責任の問題にからめて、道徳や思想に無節操な日本人の傾向を強く批判し、国男の同感を求めようとしている。
 桑原が問題にしたのは、戦争前は進歩的だった学者が、戦争が始まると国策協力的な発言をし、戦争に負けると今度はアメリカ寄りの考え方をするようになることだった。あるいは連合国軍総司令部(GHQ)の要求によって追放された教授が、占領期間が終わると、追放を決定した同じ教授会によって、あっけなく呼び戻されるといった事態を指していた。
 こうした日本人の時流に流されやすい無節操ぶりは、大勢順応的な性格につながっていた。桑原はその根柢に、伝統的な共同体意識を感じ取った。かれに言わせれば、狭いところにむやみに人が多いことが、日本人にそう我を張っていられないという性格を植え付け、一般に異を立てることを好まない傾向をもたらしたのではないかという。「和」の精神こそが言論を封殺する源だと思っていた。
 桑原が暗黙のうちに、日本人は共同体意識から抜け出して、しっかりとした個を確立しなければならないと思っていたことはたしかである。
 だが、国男は30歳ほど年下の桑原の主張にいささかの違和感を覚えていた。
 知識人にたいする戦争責任の追及にたいしても、わりあい寛容だったといってよい。
 こんなふうに述べている。

〈われわれなんかどちらかというといつでもひねくれる側だから都合がよかったんだけれどもね、なかにはいくらか政府に便宜を供してやろうとか、足りないところを補ってやろうという気持ちでやった人もあるんですから、言いようにもよりますけれども、それを変節みたいに言うのは無理だと思います。時代の勢いが強うございましたからね。御一新のさいと似てるけれども、強かったから反抗できなかったことは恕(ゆる)してやらなければならない。私自身はどちらかといえば反抗ばかりして来たんですが……〉

 国男自身は時の政府の無謀な戦争政策に批判的だった。だが、時代の勢いから、表立って反対はできなかった。ひたすら戦争が早く終わり、平和が訪れることを祈るのみだった。かといって、当時、政府に協力した者を批判しようとは思わない。
 戦後になって、日本人の事大主義を批判したこともある。とはいえ、座談会で、桑原から日本人は大勢に順応する傾向があると指摘されると、つい反発して、「これを日本人の気風とか、昭和30年代の気風って言うのは無理じゃないですか」と口をはさみたくなる。
 対談では、こんなやりとりもみられる。

桑原 日本人の道徳観は個性的というより共同体意識というものに包みこまれるのじゃないかという気がいたしますが、どうでしょうか。
柳田 いくらか近世になってからそれ[大勢順応主義]が寛大になっとったかもしれませんよ。
桑原 近世っていうと明治以降ですか。
柳田 そう、政府と対立があって、そのために悩んでいますから。
桑原 そうすると日本人のそういうことにたいする良く言えば寛大、悪く言えばルーズさ、それは明治の産物ですか。
柳田 明治の産物だと思いますね。江戸時代もそういう傾向があったかもしれないが、一体に[直言の]傾向がはっきりしていますから‥‥。
(中略)
桑原 一般に考えられている通説は、おそらく先生の説と反対で、こういう問題について日本人にルーズなところがあるのは、共同体意識がつよいからで、それは昔からずっとつづいてきて、昭和にも残存してる、という解釈ですが、先生のはむしろそうではなく、ルーズなのは明治になってからの文明開化の風潮だと。それは面白い説です。

 国男は何もとっさの思いつきで、こんなことを話したのではない。今回の戦争の敗北を反省するにあたっては、日本人の事大主義を踏まえねばならず、その遠因を近代日本のあり方そのものに求めなければならないというのは、かれの持論だったからである。
 ところが、鶴見太郎は「多くの読者と同様、柳田なら日本の悪しき伝統である事大主義が前近代から続いていると、発言するに違いないと思っていた矢先、この答えを聞いた桑原の驚きは大きかった」と指摘している。
 柳田民俗学は前近代に価値をみいだし、そこでは江戸時代がひとつの理念型としてとらえられていたことを、あらためて認識しておくべきかもしれない。
 桑原が近代的な、つまり西洋的な個の確立をこれからの日本人のあり方として持ちだすのにたいして、国男の日本人論はあきらかにそれとは異なる射程を示している。それは、この座談会でも冗談めかして述べたように、子どものころ経験した自由党かぶれの壮士にいだいた違和感とどこかで結びついている。

〈それ[エゴイズム]でないリベルテ[自由]はあるでしょうか。いつかもみんなに笑われながらそんな話をしたが、70年も昔、田舎の私の家の前で、酔っ払いが門にもたれてどうしても起きない。みんなが寄ってたかって起こそうとしたが、「自由の権だい!」と言った。自由の権利っていやなもんだと、子供心にそう思ったが(笑)〉

 西洋の直輸入思想が幅を利かすのにはがまんがならなかった。
 それでは、日本人の個のあり方について、国男はどう考えていたのだろう。
 桑原の問いにたいして、こう答えている。

桑原 それで、もうひとつ伺いたいのですけれども、歴史があってからの日本人の性質の中で良いもの、美点と申しますか、それはどういうところにあるか、教えていただけませんか。
柳田 一番大きいのは、義憤ですね。……人生の批判というものは、昔の人は百姓は百姓なりにしてるんです。
(中略)
桑原 「義を見てせざるは勇なきなり」という義憤……。
柳田 あの義でしょうね。あの義は広くも狭くも漢学者は解釈していますからね。とにかくみすみす目の前で人が倒れて弱っているのにスーッと通り過ぎる者があったら、私ら行って横っ面を殴りたくなりますね。

 少なくとも義は、事大主義とは異なり、他者にたいする個の思いから発するものである。日本人に個がないとは思っていない。ただし、その個は共同体意識とつながっており、ここで国男は共同体意識が諸悪の根源であるかのように理解する桑原の主張に釘を刺したのである。
 自由な個の拡張は、絶対神との契約にもとづくにせよ、神なき実存の発現であるにせよ、戦後に一種の明るさをもたらしていた。だが、桑原もその自由が「もっぱら金をもうけることの自由」になり、「道楽したり勝手なことをするやつが、その権利を利用してる」のには批判的だった。そこで、国男にあらためて、引き継がれるべき日本人の美質について聞くのである。返ってきた答えは意外なものだった。

桑原 義憤に次いで何でしょうか、日本人の美質っていうのは。もう一つぐらいございませんか。
柳田 それは美質とまでは言えないかもしれないが……制裁があるということを今まで気にしていた。悪いことをしたら制裁が当然あるものと考えていた。われわれは古くさい、いわば明治初年ごろから幕末のころにあった一種の幽明界というものの存在をぼんやり信じていた。あなたと話をしていても、あの隅あたりでだれかが聴いていて、あれあんな心にもないこと言ってる、と言われたんじゃたまらんという……。
桑原 西洋人だったら良心というものですか。一神教にもとづいた良心とは別ですか。
柳田 そんなに神様は出歩けないですから先祖です。隠れたところで見てるのは先祖です。
桑原 私などはもう先祖っていう感覚はないんですね、先祖を知ってはいますが。
柳田 先祖は一人じゃないんです。ちょっとそれが説明のしにくいところなんです。積み重ねて行くような形になって……。

 ここで国男は幽明界という一種のパラレルワールドをもちだしている。それは現実界とつながりながらも、現実界を見つめる神々の世界であり、いつか自分もそこに帰していく世界でもある。日本人は近代になるまで、身近な先祖の織りなすこうした幽明界の存在を信じ、それによって現実界での身を処してきた。自由な個が意識される時代となっても、幽明界とつながっているという、いわば祈りと信仰に満ちた日本人の美質は継承されるべきではないかと国男は思っていた。
 対談の最後に桑原は国男に、これからの日本に対する望みを聞いている。その答えも、いかにも国男らしいものだった。

〈それは聞いてもらいたくてたまらん点なんだ。それは倫理の問題でなく、むしろ知識の問題なんです。日本人が知ることをもっと知っておれば、戦争の初めっからの世の中の変遷をこめて、こんなものに陥ってこなかったと思うんですがね……。われわれは若いころから史学というものを本当に教える気持ちに教員がなってくれなければ困ると言っとったんです。日本という国はどういう国かということをね、これからだって遅くないので、もう少し真剣に勉強しなければいけない。しかし桑原さんは賛成しないかもしれんよ、コスモポリタンだから。「今何が一番大切な学問だろうか」と、もし私が文部大臣に質問されたら私はすぐ「史学です」と答えるつもりです〉

 アジアと太平洋で無謀な戦争をはじめた軍と政府に欠けていたのは「知識」だったと国男は考えていた。そして勝手に思い描いた夢想を、精神論と倫理が支える先に待ちかまえていたのは、とてつもない災厄だった。知識とはいまふうにいえばインテリジェンスでもある。インテリジェンスの裏づけを欠いた一見正しそうな決断、あるいは反省なき慣性が、結果的にどれほど多くの犠牲をもたらしたかを、国男は今次の戦争でいやになるほど味わってきた。
 だから、これからだいじなのは「倫理の問題でなく、むしろ知識の問題」なのだという。しかも国男にとっては、いまこそ「日本という国はどういう国か」を問い直すことが求められていた。
 その答えを「史学」によって得ようとしたところが、いかにも国男らしい。いうまでもなく、それは民衆の生活史を基本とする史学だった。

nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0