SSブログ

60年安保前夜 [柳田国男の昭和]

《第249回》
 1958年(昭和33)5月には3年3カ月ぶりに総選挙がおこなわれ、自由民主党(自民党)が287、日本社会党(社会党)が166の議席を獲得した。保守、革新の合同により自民党、社会党が誕生して以来だから、いずれ国民の信を問わなければならなかった。
 ふたをあけてみれば、保守、革新両勢力の議席配分は前とほとんど変わらない。ただし、自民党も憲法改正に必要とされる3分の2の議席には届かなかった。これ以降、しばらくは自民党が圧倒的多数を維持する時代がつづく。
 石橋湛山政権を継いだ岸信介は、引き続き首相の座を維持し、60年の日米安保条約改正へと突っ走ることになる。
 政治の季節がはじまっていた。
 国家主義者の岸がめざしたのは、強い国家の再建である。
 中村隆英は名著『昭和史』のなかで、こう書いている。

〈岸信介は、吉田茂がつくった対米従属的な日米安保体制を、対等の関係に切り替えることによって、歴史的な役割を果たす野心に燃えていた。戦前の大国の栄光を取り戻すことが自分の使命だと思っていたらしく、当面の経済政策などは、大宰相の仕事ではない、と考えていた〉

 すでに自衛隊の増強を打ちだしていた岸は、安保条約の改定を前に、日教組の弱体化と警察力の強化をはかった。
 教師にも「勤務評定」が実施され、文部省は教育現場に道徳教育をもちこむ。10月には警察官職務法(警職法)の改正が突如、国会に提出される。警察官の捜査権限を戦前並みに拡大しようというのである。これには、さすがに反対の声が強く、けっきょくこの法案は国会で見送りとなった。
 だが、この時点ですでにアメリカ側とは、新しい日米安保条約の大筋がまとまっていた。
 その内容を中村隆英は、次のように解説する。

〈まず、国連を重視すること、[戦力をもたず、対外戦争をしないという]日本国憲法の制約を考慮すること、[日本の内乱に米軍が出動できるとする]内乱条項を削除することなどの日本側の要求が盛り込まれていた。また日本を基地とするアメリカ軍の戦闘作戦行動についての事前協議についての交換公文と、在日アメリカ軍のための施設、区域やその地位を定めた日米地位協定が付随していた。しかし同時に、共通の危機に対処するため、日本がアメリカ軍と協力することが明記され、アメリカ軍の日本駐留の目的として、日本国の安全と並んで、極東における国際の平和および安全の維持が掲げられたために、いわゆる「極東の範囲」がのちに大問題とされるにいたった〉

 これが現在にいたる日米安保の枠組みとなった。「極東の範囲」は現在、世界全域に拡大され、沖縄返還後も沖縄の米軍基地はいっこうに縮小されず、むしろますます機能強化されている。
 岸内閣は日米安保条約成立に向けてがむしゃらに進んだ。そして条約は1960年5月19日に衆議院本会議で強行単独採決される(6月19日午前零時に自然成立)のである。岸は国会混乱の責任をとって辞任することとなる。
 日本ではその間、政争の暴風が吹き荒れていた。

 80歳をすぎた柳田国男が政治について語ることはほとんどなくなっていた。どちらかといえば吉田茂に愛着を覚えていた国男は、おそらく国権派の岸による強引な政治運営に批判の目を向けていたにちがいない。しかし、それをあからさまに語ることはなかった。日米安保条約について、どう考えていたかも定かではない。
 1958年初夏の総選挙後に発表された「日本における内と外の観念」は、日本の成り立ちを大雑把に示した口述筆記論考だった。その末尾で、国男は国語教育と関連するかたちで、選挙にふれている。

〈これ[選挙運動員によるコネ選挙]を改革するには、まず聞き方教育をしなければならない。……私は、政策の実行方法としては、文語廃止、口語改良論だ。口語を改良して、ちょっとの細かな感情の差も言えるようにして、聞けばすぐに吸収されてしまうようなものにしなければならない。
(中略)
 このごろ、東京あたりの選挙運動の言葉は普通言葉に近くなったが、田舎に行くと、かえってむずかしくなる。……こうして、半分ぐらいしかわからぬから、まずまず多数についておこうという大勢順応党が生まれる。表面は民主政治になっても、現実は寡頭政治である。その原因は、もちろん国民の知恵の欠乏であり、判断よりも思考力がまず不足している。
(中略)
 私は、なんといっても、国民が自分の言葉で語り、自分の言葉で聞けるようになることが先決だと思っている。そうでなければ、正しい考え方を成長させることができないからであり、また、われわれが先祖から伝えてきた正しい正しくないの暗黙の指示を公のものとして成り立たせることもできないからである〉

 選挙のたびに国男は、この話を繰り返したらしい。
 これについてはおもしろいエピソードを、国男にまつわる思い出として、のちに桑原武夫が書いている。
 国立国語研究所の評議会でのことで、当時、国男はその会長、桑原は評議員だった。おそらく1955年(昭和30)2月の総選挙を控えたときの話である。
 国男から公明選挙といいながら、醜悪なことが絶えないのは、日本語がむずかしすぎるからだという話を評議会でさんざ聞かされたあと、桑原はとつぜん意見を求められる。

〈ぼんやり聞いていると、いきなり、「みなさんはどう思われますか、阿部知二君[小説家、翻訳家]などはどうですか」。阿部君の答えは忘れたが、私もあてられることを免れなかった。言語と社会生活はもちろん関係がある。しかし表記法のむずかしさと、選挙の不正とを直接因果関係とするのはいかがであろうか、関係なしとしないが、それには中間項がいくつかあって間接の関係である。などという私の頼りない回答に対して、先生は「学者の意見というものは、いつもそんなものです。関係はあるが直接でないなどとおっしゃる」とご不満気であった〉

 大学者の桑原が、柳田学級でとつぜん先生にあてられ、質問にうまく答えられずにしかられているみたいで、何やらおかしい。
 しかし、政治の基本をことばに求める国男の姿勢は案外正しいのかもしれない。政治家の仕事はいかにうまくうそをつくかだ、といまも得意げに話す評論家がいることを思えば、政治のうそを見抜く思考力を身につけるための、ことばの教育を重視した国男の姿勢は、現在も輝きを失っていない。

nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0