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民俗学の頽廃を悲しむ [柳田国男の昭和]

《第250回》
 1956年(昭和31)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」とうたったのは、二重の意味をもっていた。ひとつは敗戦による惨憺たる経済状況が終わりつつあるということ、もうひとつは日本経済が新たな時代に向けて歩みはじめているということである。つまり、日本経済の復活と新たな前進が宣言されたのだとみてよい。
 1940年(昭和15)と55年(昭和30)を比較してみると、日本の総人口は約7000万人から9000万人へと増加した。就業人口もまた3200万人から3900万人へと拡大する。総人口の割に就業人口は増えていないが、そこからは戦後のベビーブームを実感できるだろう。子どもたちはまだ就業年齢に達していない。親たちは家族を守るために、懸命に働いていたのだ。
 この間、産業別の人口比は、第1次産業が46%から42%へ、第2次産業が25%から23%へ、第3次産業が29%が35%になっている。農業などの部門が減ったといえばいえるが、それほど産業別比率は変わっていないとみたほうがいいだろう。
 都市人口の割合は35%から45%へと上昇している。かなり都市化が進んでいるとはいえ、日本はまだまだ農村中心の社会だった。
 実質国内総生産(GDP)でみると、1940年の水準を上回ったのは1955年だ。1人あたりGDPが1940年水準に達するのは、ようやく1957年になってからである。そのかぎりにおいて、日本経済は戦後10年ほどをへて、ようやく戦前の水準へと戻ったのである。
 しかし、経済の中身は、戦前と大きく変わろうとしている。重化学工業化、エレクトロニクス化、新技術の導入、石炭から石油へのエネルギー転換がはじまっていた。
 農業の分野でも、それは同じである。
 経済学者の中村隆英はこう書いている。

〈農地改革によって、自作農になった農家が、当時の新技術──保温折衷苗代や除虫剤、除草剤の使用などを積極的に採用し、農作業につとめた結果、土地生産性が著しく改善されて、面積当たりの米の収穫は戦前のほぼ2倍を記録するにいたった。米の不足は以後解消したし、農外収入を含めた農家の収入が、都市とほぼ対等になっていくのである〉

 1957年から58年にかけて日本経済はいわゆる「なべ底景気」と呼ばれる不況を経験した。55年から56年にかけての「神武景気」が調整局面にはいったことに加えて、スエズ動乱(第2次中東戦争)が発生し、国際物価が高騰したことが、不況の原因である。
 スエズ動乱は、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化したことによって生じた。そのときイギリスとフランスは、イスラエルを後押しして、エジプトを攻撃させる。スエズ運河が一時閉鎖されたため、石油や原綿、くず鉄などの国際物価は急上昇し、加工貿易に頼る日本も深刻な経済的打撃を受けた。
 だが、アメリカの支援によりエジプトの立場が認められると、国際価格も落ち着き、国内の金融も緩和されて、日本では鉄鋼業、石油化学工業、機械工業、自動車産業などを中心にすさまじい設備投資熱が巻き起こり、日本は高度経済成長時代に突入するのである。
 中村隆英の解説をふたたび引用する。

〈大量生産による規模の経済性の追求は各企業の合言葉となった。1959年ごろからは新工場の立地がめざましく進められた。それが太平洋の各地に集中していったのである。新立地が行われれば、当然、道路、港湾、工業用水など、社会投資の増大が不可欠となった。しかも、この時期の新産業開発にあたっては、企業集団の間の競争も目立つようになった。三井、三菱、住友など、旧財閥系企業は、それぞれの金融機関を中心に、企業グループを結成していたし、従来、グループとして認められていなかった興銀、富士、第一などの各銀行も、それぞれ企業グループを形成して、グループ内各社が共同して新産業に乗り出す例が多くなった〉

 政府、金融、産業が一体となって、日本の工業化が急速に進められようとしていた。日米安保をめぐる政治の嵐のもとで、こうした経済の大変動が生じていたことは注目してよい。経済の変動は同時に社会や暮らしの変動でもある。都市化が進むなかで、農村の姿も大きく変わろうとしていた。
 日本経済には大企業と中小企業という二重構造があるといわれる。そして、こうした二重構造のもとで、企業や工場ではたらくサラリーマンや労働者が増えていた。しかし、1950年代後半といえば、経済活動の大多数を占める農家や工場(こうば)、商店、食堂などはまだまだ家族経営が中心だった。それでも、小さな経済を家族がになうという時代も、いつまでもつづくとは思えなかった。もし大家族が分解していくとなると、日本の家はこれからいったいどうなっていくのだろうか。
 柳田国男はおそらく1958年(昭和33)の春ごろに開かれた「女の会」(女性民俗学研究会)で、こんなふうに話していた。

〈一つのものを非常に深く入ったように見えていて、実は深くもないし、それからまた後始末のつかないものになってしまっては、いわば民俗学が衰微するもとになってしまいます。もちろんその中から改めて新しい考えが出て来ないとは限らないけれども、大体において衰微の傾向をとっているものだと思われる。というのは、学問全体の成長からいっても、あるところに濃厚になるということは、大変よいことだけれども、そのほかにもう一段と重要なもののあることを、見落とすことになりがちだからです。そのためには、はっきりした、一点、非の打ちどころのない方法論を書くことは、永久にこの学問を永続させるためには欠くべからざることであります……〉

 例によって、いわんとすることがつかみがたい。しかし、おそらく国男は、これまでの民俗学のテーマをさらに掘り下げることも、学問的には必要かもしれないが、それでは民俗学が現実との緊張感を失って、衰微していくことになってしまうと警告を発したのである。新しい問題点を見つけだしていくことが必要だった。と同時に、国男はどんなに時代が移りかわっても、確固とした「非の打ちどころのない方法論」をつくりださねばならないとも強調している。そこには、急速に変貌する日本社会の現状に、はたして民俗学は何らかの指針を提供しているのかという、あせりにも似た絶望的な問いかけがひそんでいたにちがいない。
 ふだんはにこやかな国男なのに、時折、頭をもたげる絶望が怒りとなって爆発することもある。これは2年後のことだが、『柳田国男伝』によると、1960年(昭和35)5月14日に両親の墓参のため、我孫子市布佐を訪れた国男は、前日、千葉を訪れ、教職員の小さな集まりで、「日本民俗学の頽廃を悲しむ」と題して講演し、「特徴ある国でなくなりつつある日本を憂い」、「珍談奇談の収集にはしりがちな」民俗学の将来を危ぶんだという。
 それはともかくとして、「女の会」の談話では、国男は最後にこんなふうに話している。

〈一番最後の目的は、女のやれる仕事をもう少しやって、そして今世の中を明るく、朗らかにするにはどうしたらよいかということを各自が考えるようにならなければならぬと思います。結局は共同生活の基礎になる知識、広い意味の史学の知識を知るように努力しなければならないことだと、私は思っています〉

 国男は女性たちの活躍に期待したのである。女性の立場からみて、民俗学にはまだまだ開拓すべき分野が残っているはずだと思っていた。その目的は、最終的には、あくまでも「世の中を明るく、朗らかにする」ことにあった。
 これまでの歴史には書かれていない「史学の知識」を切り開かねばならない。それはアメリカニズムと消費社会の渦に巻きこまれる戦後日本の姿を照射する鏡となるはずだった。

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